3.「ラブホにて」へ

4.「バスルーム」


 エレベーターを降りた俺たちは、案内板を頼りに狭い通路を歩いていた。
足元の絨毯は入り口に敷かれていたものとは趣の異なるくすんだワインレッドで、壁紙は張り替えたばかりなのか妙に光沢がある。
一階ほど、金をかけていないのだろう。小奇麗にしてはいるが、建物自体はかなり古いらしい。

「309、ここみたいね」

 扉に記されたルームナンバーを静かに読み上げる黒猫の横顔を、そっと盗み見る。
ついさっき、パネルの前で驚きの提案を受けて思考停止状態に陥ってしまった俺は、裾をちょこんとつままれ、行きましょう、と促されることでようやく歩を進められた。

「ああ、そうみたいだな」

 そのとき彼女の指が捕らえた部分は今も華奢な二本の指の間に収まったままで、身じろぎをしただけで解けてしまいそうなつながりを残したまま、後輩はこちらを見上げて小首を傾げる。

「ねえ、先輩。こういうところは、初めなのてかしら」

 無表情のままじっと見つめてくる黒い瞳から視線をそらさないよう意識しながら、俺は曖昧な笑みで応えた。

「そうだな、初めてだ」

 まさか、妹と入ったことがあるなんて言えるはずがない。もしそんなことを口走るやつがいたら、 間違いなくその瞬間から一線を引いたお付き合いをさせてもらうことになるね。
まあ、あいつの言葉を借りれば、いや、借りるまでもなくあれはノーカウントだろうよ。
実妹と、なにもあるわけがない。そんなの、わかりきった話だろ?

「……よかった」

 硬かった黒猫の頬が、目に見えて緩む。この建物に入ってから、初めて目にする笑顔だった。
それはつい見とれてしまうくらい魅力的で、鼓動が早まるのを知覚する。

「私もよ」
「え」

 思わず声を上げてしまった俺に、後輩は少し照れた風にぼそぼそとこう続けた。

「私も初めてよ」
「……そっか」

 言われなくてもそうだと思っていたものの、口に出して言われるとこうも安心するもんなんだな。
もしここで二度目なの、と聞かされていたら、どれだけ動揺したかわからなかった。
こんなときだけ彼氏面かよという厳しいお叱りの声がどこからか聞こえてきそうだが、そう思っちまうんだから仕方がない。

 と、黒猫が不意に小さく身震いした。
空いた手で二の腕をさすりながら、俺の裾を引く。

「早く入りましょう。風邪を引いてしまったら、なんのためにここへ来たのかわからなくなるわ」
「まったくだ」

 濡れたままでいるわけにはいかない、と恥ずかしい思いをしてまでラブホテルに入ったのである。
今さら部屋の前で躊躇したところで始まらない。

「よし」

 俺は自身の声をきっかけに思いきってドアノブを回して扉を開き、そのまま保持した。
なんとなく、我先にと足を踏み入れる気にはなれなかったからだ。

 しかし、どうしたことか黒猫はきょとんとしていた。

「……先輩?」
「なにしてんだ、先入れよ」

 背中を軽く押すかどうかを暫時ためらってから、結局、つながったままの手を動かすことで誘導することにする。
黒髪の後輩は一歩、二歩と進んでから、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「あなたの家ではレディーファーストが習慣なの?」
「いや、まったく」
「そう」

 黒猫はそっけない言葉と共に前へと向き直る。
その直前、見慣れた、内心をほとんど表に現さない感情の露出に、少しだけにやけてしまった。
質問の意図はわからなかったが、俺の目には嬉しそうに見えたからだ。


 309号室は和室と寝室、それから浴室で構成されている。
取り敢えず、和室を左手に洗面所まで進んだがそこにはベッドや布団が見当たらなかったから、この壁の向こうが寝室なんだろう。

 それにしても、だ。こういうとこって、意外に変わった内装にはなってないんだな。
聞いた話によると、中には異様なアイテムが取り揃えられたところがあるらしい。
まあ、ここにそんなものが置いてあったらただただ気まずいだけなんだけどさ。

 ところで、こいつがどこか困った顔をしているのはどうしてなんだろうね。
このまま見つめていたっていいんだが、それで風邪を引いちまったらアホすぎる。

「なあ、どうかしたのか?」

 問いかけると、黒猫は眉尻をわずかに下げたほほえみを返してきた。

「和室を選んだのは失敗だったかしら、と思って」
「失敗?」

 それってつまり、洋室ならよかった、ってことだよな。はて、なんだろう。
答えを考えてみたものの、ちっとも理由が浮かんでこない。

「その心は?」

 妹が相手ならきっと悔しさが勝ってしまってこうも素直に振る舞えないだろうけど、こいつが相手なら、不思議と平気なんだよな。
さっきまであれだけ緊張していたのに、今はくすぐったい沈黙とも呼ぶべき常日頃の空気を取り戻している。
これは、異性であっても気が置けない友人は存在し得る、ってことなんだろうよ。

「そんな、たいそうなものではないわ」

 黒猫は頬に張りついていた一筋の髪を指ですくって、すっと耳の後ろへと流した。

「ただ、このままでは畳の部屋に入れないから」
「なるほど」

 確かにそのとおりだ。
素材のよくわからないビニールみたいなものや石造りの床は、撥水性に優れているため水気を楽に拭き取れるし、木目が剥き出しでさえなければ、フローリングでも少々時間が経ったところで簡単には染み込まない。
でも、畳は違う。濡らしたまま放っておけば、きっと跡が残ってしまう。

 自分の家じゃないから、っておざなりに扱うのはちょっと違うんじゃねえか、と思う。
客だから、金さえ払えばなにをしてもいいという考え方は、好きじゃない。
こういうとき、あの親父に育てられてきたからこそ、今の俺があるというのを実感する。

 ともかく、いつまでもここに突っ立っていたら黒猫がシャワーを浴びることができない。
取り敢えず後で拭くってことで、勘弁してもらうとしよう。背に腹は代えられない。

「あー、指先が少しかじかんでるな、ちくしょう」

 俺がぎこちない手つきで上着のボタンを外し出すのを見て、黒猫は一転して頬を引きつらせ、悲鳴に近い声を上げた。

「な、いきなり脱ぎ出さないで頂戴っ」
「ああ、悪い。このまま和室に入ったらまずいと思ってさ」

 普通に説明するつもりが、目元を桜色に染める彼女の照れがうつって、途中から早口になってしまった。
上半身のみとはいえ、兄や弟を持たないやつには少し刺激が強すぎたか。
かくいう俺も、妹の前で服を脱いだ記憶なんざ少なくとも五年以内にはない気がするけどさ。

「じゃ、俺、あっちの部屋で待ってるから」
「……待って」

 腕をハンガー代わりに引っ掛けて踵を返しかけた俺は、呼び止められたことに内心首を傾げながらも後輩へと向き直った。

「どうした?」
「それはこちらの台詞よ」

 何故か、彼女は唇を尖らせていた。

「さっき、私が口にした選択肢はすでに頭から抜け落ちているのかしら。人という種の、限界?」

 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。
選択肢って、もしかして一緒に入る、ってあれのこと? あれ、本気だったの?

「その顔を見る限り、どうやら覚えているようね」
「覚えちゃいるけどよ」

 それって、マズくないスか。自分で言うのもなんだけど、俺が理性を失ったらどうすんの!?
それとも、事ここに至ってヘタレ根性丸出しな俺が悪いのか。
据え膳食わぬは、なんてえらく男に都合のいい格言もあることだしな。

 でもよ。もし、勢い任せ的なものに頼らなくてもいいとしたら、まったく話は違ってくる。
だってさ。わざわざ自分からこんなことを言うんだから、こうも考えられるじゃねえか。

「おまえ、俺と一緒に入りたいわけ?」
「そう、ね。語弊はあるかもしれないけれど、答えは“はい”よ」

 黒猫はためらうことなく肯定した。
顔こそ赤らめてはいるが、落ち着いた声で紡がれていく言葉を、俺は馬鹿みたいに口をパクパクさせながら聞くことしかできない。

「勘違いしないで頂戴。その、あなたが思い描いているような、ふしだらな妄想が私の願望と捕らえられるのは、遺憾だわ」
「え、違うの?」
「当たり前よ。まったく、破廉恥な雄だこと」

 真っ向から指摘されて、恥ずかしさで身悶えしたくなった。
しかし、男ってのはそういうもんなんだよ。なあ、あんたらだってそう思うだろ?

 そんな苦しい言い訳を胸中こぼしている間にも、後輩の告白は続く。

「でもね。これも勘違いして欲しくはないのだけれど、私は、先輩がそういう風に考えたことを嫌とは思っていないの。それはあなたが、私を女として、異性として意識してくれているということに他ならないもの。好きな人に意識してもらえて、嬉しく思わないはずは、ないでしょう」

 余裕のない必死な表情で語を継ぐ黒猫に、俺は自らの身勝手さに心底恥じ入った。
同時に、胸が熱くなる。こうして、一生懸命想いを伝えてくれようとする彼女が、愛しくてならない。

「一緒に入ってみるかとたずねられて、あなたが首を縦に振るとは思えないわ。だから」

 向けられた黒い瞳は幾つもの感情によって、揺れていた。

「一緒に入りましょう。待っている間に、もしあなたが風邪を引いてしまったら、嫌だもの。たとえ、この後どれだけ具合が悪くなったとしても、あなたは私を責めることはないのでしょうけれど、私は間違いなく自己嫌悪に陥るわ。絶対、と言ってもいいくらい」

 それでも、俺はまだ首肯することができずにいたのだ。

 しかし、である。

「これは、言うなればただの自己満足よ。だからあなたが悪く思う理由はひとつとしてないの」

 免罪符と同時に差し出された次の殺し文句を耳にした途端、ためらいなんざ、どこかへ消えちまった。

「それとも、私と一緒に入るのは、嫌?」
「バカ。嫌なわけないだろうが」

 後輩は、泣き顔にも見える笑顔をみせた。
ここまで言われて断るやつは、まずいないだろうよ。
恥ずかしくないわけがないのに、俺の身を案じて、こんなことを言ってくれたんだからな。

「……もしかして、泣いているの?」
「嬉しくて、心が汗を流してんだ」

 俺のおかしな台詞を聞いても、黒猫は茶化すことなくはにかんで、そっとタオルを差し出してくれたのだった。


「湯、ためるぞ」

 風呂場は二人が並んで寝そべっても余るくらいのスペースを有していた。
文字どおり、そうするためにこれだけ広いのかもしれない。

 ちなみに俺は、タオルのみを腰に巻いた状態で、黒猫は胸元をタオルで隠しているようだった。
ようだった、というのはさっきから振り向かないよう、浴槽を見つめているせいで、きちんと確認していないからだ。
さすがに、正面から直視して平然としていられるほど、自分の理性が鉄壁だとは思えない。

「温度はこれくらいでいいかしら」
「ああ」

 足元にシャワーを当てて熱さを教えてくれる後輩に、親指を立てて応えた。
生き返る、とはこのことだ。かかった瞬間こそじんとくるものの、冷えきった体にはこれくらいがちょうどいい。

「こっちはどうする? ぬるめが好きなら水を足すけど」
「そうね。ひとまずシャワーで温まることができるし、そちらは程ほどにしておいてもらえると嬉しいわ」

 聞こえてくるのんびりとした口調は、いつもと変わらない。
そして生まれたくすぐったい沈黙に、すっかり油断しきっていたところへとてつもない衝撃が来た。

「ここまで来て、まさか一緒に浸からないなんて、言い出さないでしょう?」

 ぎょっとして振り向いた先で、黒猫は婉然とほほえんでから顔面にシャワーを浴びせてきた。

5.「抱擁そして」へ

ver.1.00 10/11/26
ver.1.80 12/11/17

〜俺の後輩がこんなに可愛いわけがない・舞台裏〜

「いやあ、心底驚きましたぞ。黒猫氏がこうも大胆な行動に出るとは思いもよりませんでした」

 ほんのりと目元を桜色に染めながら、ぐるぐる眼鏡は白尽くしのゴスロリの後輩へと詰め寄った。
完全に言葉を失った俺をちらりと見やって、唇をお得意の猫口にする。
自分でも、頬に熱くなっているのがわかる。当然だった。
今まで浮いた話とはとんと縁がなかったせいで、まったく耐性がないのだ。

 その点では黒猫も同じはずなのだが、下から覗き込まれながらも彼女の態度は堂々としたものだった。

「なにを言ってるのかしら。あのままでは、彼が風邪を引いてしまうと判断したからそうしたまでよ。他意などないわ。下卑た妄想をしないでもらいたいものね」

 さすがに顔を赤らめてはいるが、噛むことなく淀みない返事をしている。
大したもんだぜ、本当にさ。でも、一見鉄壁の仮面も無理をしているのがわからないほど完璧ではない。
付き合いの長い人間を騙すには、少々感情表現が豊かになりすぎちまった、と言うべきか。

 もちろん、それは悪いことなんかじゃない。むしろ、いい傾向といえる。
家族には知られていたのかもしれないが、それはあくまで消極的な容認に過ぎず、桐乃と同じく、オタクっ娘集まれのオフ会に参加するまでは、誰かとアニメの話で討論したことなんざ、なかったはずだ。

 それが、今はどうよ。
自費で思わず本まで作ってしまうくらい大好きな趣味について語り合えるばかりか、こんな風に、愛ある突っ込みを入れてくれる仲間がいるんだ。
感情を隠そうとしたって、嬉しくてつい漏れちまうに決まってるじゃねえか。

 とはいえ、こういうことを指摘されればやっぱり恥ずかしいし、いや、仲がいい相手だからこそ、余計に照れくさいわけで、そのことを沙織が理解していないわけがなかった。

「素直ではありませんなあ。京介氏の前ではあれほど……」
「な……莫迦を言わないで頂戴」

 しみじみと言うぐるぐる眼鏡に、黒髪の後輩はあわてた声で応えた。
そして、困ったようにこちらを一瞥し、うつむいてしまう。
一連の動作を間近で観察していたぐるぐる眼鏡は、ふむ、とつぶやいて顎に拳を押し当てた。

「京介氏とて、素直でかわいらしい黒猫氏をお望みのはず。いかがですかな、京介氏」

 この女、俺に振ってきやがった!
顔から火が出るとはこのことだ。瞬間湯沸かし器状態じゃねえか、ちくしょう。

「そりゃあ、さ」
「そりゃあ、なんですかな?」
「そりゃあ……見たいに決まってんだろうが」

 じっとこちらを見つめてくる沙織の隣で、はっとした表情で黒猫が顔を上げるのが見えた。
俺は、構わず語を継ぐ。

「おまえだけじゃねえ。沙織も、桐乃だってそうだ。素直が一番だと思うぜ。そりゃ、わかるよ。喜んでくれているときは、どんな憎まれ口を叩いてたって、きっとわかる。でも、それをストレートに伝えてもらった方が、こっちも一緒に喜びやすいだろ? そうして嬉しいことは分かち合い、辛いことは少しでも一緒に背負い合えたら、最高じゃねえか」

 胸の内を語り終えたところで、微かに驚きの色に彩られた二対の瞳に凝視されているのを知覚する。
途端に気恥ずかしくなって、俺はいつの間にか握りしめていた拳を解き、頬をかりかりとかいた。

 そのときである。

「……先輩」

 ためらいがちに口を開いて、黒髪の後輩はすっと目を弓にした。

「あなたが望むのなら、そうね。そうすることも、やぶさかでないわ。すぐには変われないでしょうけれど、少しずつなら、変わっていけるとはずだもの」
「黒猫」

 思わず胸が詰まった。
今までだって、こいつはいい風に変化している。そのことに、自分で気づいていないはずはない。
にも係らず、なお、俺のために変わろうとしてくれる、って言われて、めちゃくちゃ嬉しかった。
感動したといってもいい。

 期せずして生じた雰囲気はどこまでも優しく、温かかった。
しかし、当事者以外にとってはいたたまれない空気だったのかもしれない。

「拙者は席を外すべきでござろうか」

 遠慮がちに大きな体を縮めながらつぶやいた沙織に、俺と黒猫は顔を見合わせ、吹き出した。



 黒猫SS第4弾です。ようやく入浴シーンまでこぎつけました。
なんだかんだ言って、一緒には入らないんじゃないの、と思っていらした方も、多いでしょうか。
とはいえ、年頃の男の子でここまで自制できる人って、どれだけいるのでしょう。
そんなことを考えながら、それでも、京介ならこれもありかな、と思う私です。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。



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