1.「」へ

2.「ラブホテル」


「違うのよ」

 真っ赤な顔でそう言った彼女が何を考えているのか、俺にはわからなかった。
表情から読みづらかった、というわけじゃない。むしろ、これでもかと言わんばかりに表れていた。
ただ、それ以上にこちらがあわてふためいていたために、そこまで思考を巡らせる余裕なんてなかっただけの話である。
胸を張って言うような話じゃないけどな。

「……っ」

 口を開こうとして、しかし続く言葉を紡ぎだすことができずにいる俺に、濡れネズミの後輩は、あ、と小さくうめいて更に頬を紅潮させた。

 どう、違うのか。何が違うのか。説明のしようがなかった。
だってそうだろう。タイミングの悪さはあるかもしれないが、妹にとっても俺にとっても友だちである黒猫と、たかがラブホテルを目にしたくらいでおかしな空気になっちまう理由なんてないはずだ。

 こいつじゃないが、違うんだ、と言いたかった。
でも実際には、わかってるよ、と答えるのが精一杯で、目をそらすことさえできずに視線が絡み合う中、気の利いた台詞を見つけることはおろか語を継ぐことさえできずにいる。
お互いに、何を意識して黙ってしまっているのかわかるだけに、雨の中をひたすら走り回りたい衝動に駆られる。
そうすれば、このもやもやとした気持ちがどこかへ吹き飛ぶんじゃないだろうか、ってね。

 そのときである。ドン、と腹の奥底まで響く盛大な雷鳴が轟いた。
かなり近くに落ちたらしく、周辺の街灯が一斉に消えると同時に地面が揺れる。

「きゃっ」

 反射的に悲鳴を上げてしがみついてくる黒猫をなんとか抱きとめ、どんよりと重い空に目を移す。

 こういうとき、一緒にいる人のほうが自分よりもはるかに動揺しているのを見ると、案外落ち着くもんだ。
幸い今ので打ち止めだったらしく、次第にゴロゴロとうなるような音が遠ざかっていく。

 それにしても、どうしたもんだろうね。雲の流れを見る限り、当分、雨足は弱まりそうもない。

 俺はため息をつこうとして、今、自身が置かれている状況をはっきりと認識した。
腕の中には、女の子がいる。それも、着衣が雨によって透けている状態で、だ。
濡れた服を着続けているため体は冷えきっていて、触れ合う箇所から伝わる温もりは、思わず抱きしめたくなる欲求を否が応でも募らせる。

 動くに動けない俺は、首の付け根辺りにになんとなくむずがゆさを覚えた。
黒猫は顔を伏せてはいるが、こちらにもたれかかっているわけじゃない。では、いったいどうなっているのか。

 視線を最大限下方向にやって、息を飲む。
答えはすぐにわかった。吐息だ。布越しに、黒猫の呼気が鎖骨の付近を温めているのである。

「あ、あのさ、黒猫」
「なにかしら、先輩」

 そっけない返事と共に投げかけられた赤みを帯びた瞳に射抜かれて、俺は口ごもってしまった。
なんて言えばいいんだ。だって、よく考えてみてくれ。
この態勢は、偶然が生み出したもので、他意はない。それはいい。
だが、さっきからお前の息が当たっているぞ、なんてこっちから指摘すれば、まったく話は違ってくる。
黒猫がなにも気にしていなかったとしたら、どうだ。俺だけが妙に意識しているみたいじゃねえか。

 まあ、友だちの兄貴だからと安心しているのかもしれないし、ここは万が一にも過ちを犯すことのないよう、肝に銘じておかねえとな。
一時的な感情の高ぶりやもののはずみで、大切な友人をなくしたくはない。

 おこがましく聞こえるかもしれないが、世話になっているのはお互いさまで、気心の知れた相手で、結構、いや、かなり格好悪いところまで見られている。
そういうやつだからこそ、守らなくちゃいけない一線があるんだと思う。

 とはいえ、いつまでも寄り添ったままだと、変な気分になったとしてもおかしくはない。
なにしろ黒猫のかわいさは、贔屓目でもなんでもなく、十人並みとは程遠い、それこそ美少女と呼んで差し支えのないレベルだ。
九分九厘煩悩でできている健全な男子高校生にとってこの状況は、さすがに少々刺激が強すぎると理解していただけることだろう。

「いや、さ。なんていうか、だな」
「暑苦しいというの?」

 要領を得ない俺の言葉に、黒髪の後輩は質問をかぶせてきた。
表情に目立った変化はないものの、どこか不安げに見えるのは気のせいか。

 しかし、俺は迷うことなくかぶりを振った。それこそまさか、だ。

「それはねえよ。だって、お前、ちょうどいいくらいに温かいし」
「え」

 黒猫の目は大きく見開かれていた。
その態度に、遅れて自分がどう答えたかを知覚して、激しく赤面する。
我ながらドン引きだった。なに言っちゃってんの、俺。いや、ねーわ。正直、これはない。

「だから、さ」

 あわてて取り繕おうとしてしまうのは、凡庸な小市民の限界といったところだろうか。

「つまり、俺が言いたいのは」

 こうしているのが心地よくて、だから動けずにいる。
できることなら、もうしばらくこのままでいたい。
もし、そんな台詞を口にしたらこいつはどんな顔をするんだろうね。

 驚くのか。
 呆れるのか。
 あるいは怒り出すのか。

 それとも……。

「俺が言いたいのは……?」

 拳二つ半の距離から、黒猫が呟く。
見上げてくる切れ長の目に、長い睫毛に、ほんのりと上気した頬に、視線が吸い寄せられる。

 そう、俺は見とれていたのだ。

「それは」

 頬が熱い。彼女から、目をそらすことができない。
自分でもテンパっているのがわかった。とにかく息苦しかった。
本気で、雨中全力百メートルダッシュを実行したい気分だった。

 だから、これは苦し紛れに飛び出した台詞だった。

「……ほら、あれだ。雪山で遭難したときによくある」
「温まるには人肌が一番?」
「そう、それだ……って、違うわ!」

 思わず突っ込んでしまった。
誰に、って? 俺自身に対してだよ。

「本当にあなたという人は」

 黒猫はしみじみとそう言って、くつくつと喉の奥を震わせた。

「……っふ。あはは」

 こらえきれない、といった風に笑う彼女を茫然と見ていた俺も、つられて笑い出す。
そんなにおかしかったのか。まあ、自分でもおかしいとは思うけどさ。

 黒猫は、目尻を人差し指の背でぬぐいつつ、こちらの二の腕をポンと叩いた。

「離れろ、と言われたらすぐにそうするつもりだったのだけれど」

 後輩は語を切って一度、目線を雨に煙る路上へと向けてから、少し拗ねたように唇を尖らせる。

「先輩がなにも言ってくれないから、悪戯をしたくなったのよ」

 顔を伏せ気味に続ける黒猫の表情は、魅力的すぎた。
思い出したかのように鼓動が跳ねて、居ても立ってもいられない気分になって、それなのに、つい頬が緩んでしまう。でも、その意味を考えることはできなかった。

 理由は簡単だ。

「は、は……」

 くしゃみが飛び出したから、である。


「あー、ちくしょう」

 口をついて出たのはそんな言葉だった。オヤジくさいと言うなかれ。
誰だって、似たような経験はあるだろう? 逆に、親父が言ってるのを聞いたことはないが。
それはさておき、ぎりぎりで顔を背けることができたので、艶やかな黒髪を唾液まみれにしなくて済んだのは僥倖だった。
さっき、顔面で受けたばかりだからおあいこだろ、なんて言ったらセクハラだ、って訴えられちまうぜ。

 と、彼女がじっと見つめていることに気づく。
まさか、鼻水が垂れているわけじゃないだろうな。
照れ隠し半分で鼻の下をこすって確認するが、特にそういったことはなかった。

 ま、出会ってからこっち、もっと恥ずかしい姿を見られているから、それくらいなんてことはない気もするが、やっぱり年頃の男子としては歓迎すべきものじゃない。

 こいつの前で格好つけるなんて、なにを今さら、って突っ込まれそうだけどさ。

「先輩」
「ん?」

 黒猫はためらいながらも、半分振り返るような態勢で言った。

「このままでは二人とも風邪を引いてしまうわ。だから」

 一拍を置いて、普段よりもややハスキーな後輩の声が俺の耳朶を打つ。

「入りましょう。あそこへ」

 代名詞が何を指しているのか、すぐにわかった。
ラブホテル以外のなにかだったら、黒猫がここまでひどく赤面することはないに違いないからだ。


3.「ラブホにて」へ

ver.1.00 10/10/9
ver.1.85 12/10/28

〜妹の友だちがこんなに可愛いわけがない!?・舞台裏〜

「で?」

 さて、オーディオコメンタリーというものをご存知だろうか。
映像特典によくある、その作品の出演者が本編を観ながら解説や感想、あるいは雑談に興じるもので、内容とはまったく関係のない話になることもあれば、実際に演じたそのときの気持ちを語ることもあるアレだ。

 どうしてこんなことを言い出したのかといえば、今、俺たちは『俺の後輩がこんなに可愛いわけがない』を見て、各自がコメントを言い合っている最中で、参加しているのは桐乃、沙織、そして俺の三人である。

 それはいいんだけどさ。
どうして俺は、まるで親の敵を見るような目を妹から向けられているんだろうね。
いや、理由はわかってるよ。そんなの、わかりきったことだ。

「で、とは」

 腕を組み、わずかに顎を持ち上げつつこちらをにらみつけてくる妹への返答に、俺は心底窮しながらもおそるおそるたずね返した。
後ろで口元をω(こんなふう)にしているぐるぐる眼鏡からの助け舟は期待できそうにない。
かといって、ここで席を立つのはあれこれと世話になっているあいつの顔を潰すことになる。ちくしょうめ。

「まさかとは思うけど、一から十まで説明しなくちゃいけないわけ? 脳、足りてる?」

 ここまで兄をこき下ろす妹は、さすがに珍しいんじゃないだろうか。
しかも、絶対零度を思わせる視線のおまけつき、だ。

「それで、なにか言いたいことは? あっても聞かないけど」
「たずねておいて聞かない、ってどういうことだよ」

 どうでもいいけど、座高からいえば桐乃の方が低いというのに見下ろされている感じがするのは、きっと気持ちの持ちようなんだろうな。
と、待てよオイ。それって、この歳にしてすでに頭が上がらないってことじゃねえか。

 ここはひとつ、兄としてビシッと言ってやらんとな。

「だからさ、仕方がなかったんだって。見ろよこの雨! 下着までびしょ濡れなんだぜ? 俺はともかく、女の子に風邪を引かせるわけにはいかんだろうが!」
「キモ」

 即答だった。バッサリだった。明らかに引いていた。
ゴで始まる四文字の虫を見つけたときに勝るとも劣らない、嫌悪感たっぷりの眼差しだった。
俺、なにかおかしなこと言った? 今のって、一般論じゃねえの?
ねえ、泣いてもいいですか。

「あー、もう。なんて顔してんの。やめてくれない? それじゃ、あたしが悪者みたいじゃない」

 妹はばつが悪そうに吐き捨てると、肩口まで振り上げた拳を勢いよく下ろした。
そんなに情けない面をしていたんだろうか。
見ると、沙織が何度もうなずいていた。その通りです、ってか。

「万歩譲ってそれが本当だとしても、今のはマジキモいから」

 桐乃はボルテージを幾分下げつつ言って、嘆息した。

「やましい気持ちがないなら、いちいち叫ばなくてもいいじゃない。それを向きになって、バカみたい。だからキモいって言ったのよ」
「それは、そうかもしれないけどさ」

 一理ある、とは思う。妹にとって黒猫はかけがえのない友だちで、もしかすると寄り付く虫は根こそぎ許さない、と考えているのかもしれん。だが、言い方ってもんがあるだろうよ。
上から目線どころの騒ぎじゃない。お前はいったいどこの神様だ。
親しき仲にも礼儀あり、って言葉を知らんのか。

 自然と目つきが悪くなる中、横合いから大柄なぐるぐる眼鏡が割って入ってきた。

「まあまあまあまあ京介氏。ここはかわいい拙者に免じて許してくだされ」
「沙織」

 このとき、ほっとしたのは俺だけじゃなかっただろうよ。
正直、助かった。険悪なムードが高まる前に飛び込んできてくれたわけだからな。
とはいえ、だ。

「仲裁してくれるのはありがたいが、さらっと自分のことをかわいいとか言うな」
「はて、いつそのようなことを言いましたかな」
「いつ、じゃねえよ。今言っただろうが」
「拙者は事実を口にしたのみで、にんともかんとも」

 唇を弓の形で固定したまま小首を傾げる沙織に、つい苦笑してしまう。
こいつのことだから、人を食ったこの態度も、狙ってやっているんだろうよ。
まったく、できすぎた友だちだぜ。

「それに、ここは怒るところではござらん」
「と言うと」

 俺に応えてぐるぐる眼鏡はニヤリと笑ってから、半身を桐乃へと向けた。

「きりりん氏が心配していたのは、なにも黒猫氏だけに限ったことではござらん。京介氏の身の上を案じた上での、ちょっとした照れ隠しでござるよ。そこに少量のヤキモチをエッセンスとして加えたのが先ほどの台詞ですな」
「……は?」

 目が点になる、とはこのことだろう。
あいつが俺のことを心配して、それで、なんだって?

 しかし、俺が口を開くよりも先に動いたのは妹だった。

「ちょ、ちょっと待ってよ。なに勝手なこと言ってんの」
「はっはっは、照れることはないですぞ。拙者はきりりん氏のお気持ちを汲み取り、噛み砕いて説明しただけでござる」
「だから、そうじゃなくて!」

 逃げる沙織をほんのりと頬を桜色に染めながら追う桐乃は、なんというか悪くないと思った。
これまで見てきたあいつとは似ても似つかない、なんともほほえましい姿だった。
いつもこうだったら、可愛い妹なんだけどな。まあ、あり得ない話だけどさ。


 黒猫×京介SSの続きです。
アニメ放送はまだ始まっていない地域もありますし、ネタバレを防ぐために多くは語りませんが、
第一話を見た感想は、非常によくできている、です。普通におもしろかったです。
そういえば、原作で初登場したときの黒猫は中学三年生ですが、
このお話では高校一年生になっています。イラストも、それに合わせて少し大人びた雰囲気ですね。
 続きは、なるべく早くお届けしたいと思っています。
個人的には、アニメの第3話が楽しみです。原作を未読の方、どうぞお楽しみに、です。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。



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