九月。妹からとんでもない人生相談を受けたあの日から、ちょうど一年が経ったこの日、俺は突然の雨に降られて途方に暮れていた。
出かける直前に晴れの予報を見ていてなおカッパを持ち歩く習慣なんざあるはずはなく、いわんや傘を持つはずもなく、全身くまなく下着に至るまでずぶ濡れになり、ほうほうの体で近くの軒下に駆け込んだ途端に風向きが変わって横殴りの水滴を浴びるという余分なおまけに心を折られ、結果、成す術もなく空を見上げるだけの肉の塊と成り果てた次第である。
いくら天気予報の確度が上がったからと言って、百パーセントの的中率を誇るわけじゃない。
それはわかっている。わかっちゃいるし、妹が事の顛末を聞けばあんたに用心が足りないだけ、だとかバカじゃないのと言われそうなものだが、今日に限って言えばやむを得ない、それこそ、歩いていて犬に小便を引っかけられるレベルの出来事と言っていいだろう。
実際、さっきまで晴れていたのにいきなり降りだす日に、たまたま外を歩いていた、<というのはそれほど珍しいことではないし、雨具を持ち合わせていなければ、とにかく屋根のある場所に移動するか、諦めて打たれ続けるか。他の選択肢はぱっと思いつかない。
いや、もしかしたら仲良しの兄弟がいる家庭では、こういう事態に陥っても電話ひとつで助けに来てもらえるのかもしれないが、少なくとも、高坂家においてはあり得ない話だった。
さて、ここまでならわざわざ語る価値もないよくある話で片付けられるのだが、そうではなかった。
なにしろ女の子と二人、並んで垂れこめる重い雲を見上げたことは、生まれてこの方、少なくとも覚えている限り、ない。
そこに立っているだけで無視し得ない程に存在感を放つ誰かさんとは違って、平々凡々な俺がそうした機会を得るのは実にレアケースなのさ。
「こりゃ、止みそうにないな」
半ば独りごちるような呟きに、真隣で俺同様濡れネズミになった黒ずくめのゴスロリ少女が、二の腕辺りを緩く抱きながら、無表情な顔と体を心もちこちらに向けた。
俺は、見上げてくる赤いカラコンを見つめ返して詫びの言葉を口にする。
「悪かったな。こんな日に誘ったりして」
そう。黒猫を誘ったのは、俺の方からだった。
『真妹大殲シスカリプス』のアップデート版に関する情報をチェックしようと思っていた矢先、偶然帰り道に彼女とはちあわせて、特に用事はないと聞き、それならと話を持ちかけたのだ。
「雨は嫌いではないわ」
「いや、無理にフォローしなくていいって」
「っふ。この程度で私を苦しめられると思ったら大間違いよ。十把一絡げの人間風情と一緒にしないでもらいたいわ」
一々突っ込むのも何だけどさ、言葉とは裏腹に唇が少し青く見えるのは俺の目がおかしいのかね。
「それでも、すまないことをした、と思っちまうのが俺だ」
「まったく、相変わらずのお人よし加減ね」
厚意と呼ぶのもおこがましいが、後輩からそんな切り替えしを受けたとき、どんな返事をするべきなのか。
知ってるやつがいるなら今すぐこの場に現れて説明してもらいたいもんだ。
「一つ教えてあげる」
桐乃といいこいつといい、どうして毎回上から目線なんだ?
もしかしたらそんなつもりはないのかもしれない、と思いたいが態度を見る限り、見下されているようにしか思えない。
もっとも、それを理解した上で反発することなく受け入れてしまう俺も、どうかと思うけどさ。
いや、違うんだぜ?
勘違いされても仕方がないが、俺は断じてシスコンなんかじゃない。
たとえ相手が大嫌いな妹だったとしても、全力を尽くすのは兄貴ならば当然なんだよ。ただ、それだけの話だ。
さて、話を戻そう。
ご存じのとおり黒猫と俺の間に血のつながりはない。
百歩譲ってこいつを妹のように思っていたとしても、桐乃とイコールかと聞かれたら、きっと即答する。そんなはずないだろう、ってね。
なるほど、兄さん、と呼ばれたことがあるがあれはあくまで兄妹の振りをしただけだし、妹の友だちだから、というのもまったく理由になっていない。
ある意味で、似た者同士だから、か?
俺もこいつも、劣等感を抱いている。癇に障る自信に満ちた高笑いをする、桐乃のような化け物じみたスペックの持ち主が身近にいて、平気でいられるのは相当な器の持ち主に違いないぜ。
だが、黒猫に対して俺がこんな風に接している答えは、それじゃない気がする。
そもそも俺は同情や親近感だけで誰かに唯々諾々と従うほど、できちゃいないからな。
「心して聞きなさい」
年下に命令されて、思わずうなずいてしまった。
すると、黒猫はわずかに目元を和ませてこう言ったのだ。
「あまり私を見くびらないで欲しいものね、先輩。確かに誘われなければ、こうして雨に降られることはなかったのかもしれない。でも、その責任をあなたに……先輩に負わせるほど私は子どもではないわ」
全身黒ずくめのゴスロリ女は、淡々と語を継いだ。
「まあ、どこかの丸顔モデルは自分から誘っておいて、怒りかねないけれど」
目線を再び降りしきる雨へと移して、俺は口元を緩めた。
「同感だ」
きっと、黒猫も似たような顔をしているのだろう。
互いに前を向いたままだったが、なんとなくわかる。
ところで、だ。
「なあ」
「何かしら」
呼びかけに応えて無防備に小首を傾げる様は、軽く鼓動が跳ねるくらいにはかわいかった。
それより、確認してはっきりとした。
「大丈夫か? お前少し体が震えてるんじゃ」
ばれていないつもりだったのか、黒猫は目を丸くした。
だがそれは一瞬のことで、すぐにいつもの冷然とした態度を取り戻す。
「平気よ。第一、人間風情に心配されるようなやわな体じゃないと言ったでしょう。……人のことより、先輩は自分のことでもか……考え、て……」
なんだ? いったいどうしたって言うんだ。
これも、成りきりの一種なのか。何かの作品にこういうシーンがあるとか。
「どうした、黒猫」
「っくしゅ」
覗き込もうとした俺は、女子高生の口から吐き出された唾液を満面に浴びることになった。
「ごめんなさい」
取り出したハンカチで顔を拭かれている間、黒猫はひたすら謝り続けていた。
唾棄されて喜ぶマゾもいると聞くが、いったいどんな神経をしているのか俺にはまったく理解できない。
考えてみて欲しい。食事中じゃなければ固形物が混じることはないものの、顔が粘っこい液体まみれになるんだぜ? それが嬉しいとか、どう考えてもおかしいだろ。
趣味や性癖は人それぞれだけど、唾吐きで歓喜する手合いと分かり合える日なんざ永遠に来ないと断言できる。
「気にするなって」
手が止まるのを見計らって声をかけると、ゴスロリ女は眉尻を下げたままこちらを見つめ返してきた。
こういう表情をすると、泣きぼくろとあいまって弱々しい印象になる。
いわゆる守ってやりたくなるような、ってやつだ。
ま、俺にナイト役なんて似合わないし、こいつもそんなことは望んじゃいないだろうけどよ。
「桐乃のだったら我慢しかねるが、お前のならまあ、よしとする」
「っ」
黒猫は突如顔を引きつらせたかと思うと、大きく一歩退いた。
後ろに何かいるのかと振り返ってみたものの、雨に煙る商店街しか目に入らない。
「どうしたんだ?」
「……先輩」
腕を、何かから自身を守るかのように肩の高さで保持しながら、黒ずくめの女は言った。
「今、とてつもなく変態的な告白をされた気がするわ。顔を唾液まみれにされておきながらその台詞、先輩はやはり真性のマゾだったのね」
「違うわ!」
どんな勘違いをしてやがる。
シスコンな上にマゾなんざ、どう考えても人生ドロップアウト組じゃねえか。
あと、やっぱりとか言うんじゃねえ。
「ともかく、タオルで拭くくらいはしないとマジで風邪を引くぞ」
「だから平気だと」
「うるせえ。強がりばかり言ってんじゃねえよ」
こういうところは桐乃と似ている。困っているときこそ、そうであることを隠そうとする。
心配をかけたくないからか、はたまた信用されていないのか、それはわからない。
しかし、寒さに震えているとわかってしまった以上、放っておけるわけがなかった。
「ちょっとじっとしていろ」
言いながら俺は黒猫の手を取った。
「な、何を」
「言わんこっちゃねえ。こんなに冷たくなってるじゃねえか」
「それは……」
はっきりとした事実を突きつけられてはさすがに反論のしようがなかったらしく、言葉を失った後輩から目線を外して周囲を見渡す。
コンビニでも何でもいい。一走りして、タオルを買ってこなくちゃならない。
そんな中、ある看板が視界に入り、同時に浮かんだ考えを振り払うようにあわててかぶりを振った。
そんな俺に、黒猫は怪訝そうな顔つきで小さく首を傾げる。
「どうしたの、先輩。頭が悪いのかしら」
「失礼なことを言うんじゃねえ!」
「ふん。恩を仇で返す人非人風情が」
ひでえ! そこまで言われることかよ!
「冗談はさておいて、本当に具合が悪いわけではないのね」
「ああ、そういうわけじゃない」
釈然としないものはあるが、まあ、こいつなりに心配してくれた、ということか。
だが、ここで突っ込んだ質問をされたら絶句するより他はなかった。
シャワーが使えるからって、まさかあんなところに行くわけにはいかない。
そのときだった。
不意に、あ、という小さな呟きが聞こえてきたのである。
「どうしたん……」
ほんのりと頬を桜色に染めた黒猫の視線を追って、絶句する。
そこには俺が見つけたものと同じ建物、すなわちラブホテルがあったからだ。
2.「ラブホテル」へ
ver.1.00 10/9/17
ver.1.81 12/10/19
〜妹の友だちがこんなに可愛いわけがない!?・舞台裏〜
「さて、本日皆さまにお集まりいただきましたのは、映像をお楽しみいただきながら解説をする、いわゆるオーディオコメンタリー形式で論評してもおうと思いまして、いかがでござるかきりりん氏」
大柄なぐるぐる眼鏡の女は辺りに漂う重苦しい沈黙をものともせず、口元をωにしながら、隣に座る妹に声をかけた。
「それは別にいいんだケド」
深々とソファに座って腕を組んだ桐乃はいつにも増して尊大で、不機嫌です、と満面に書きなぐった面をしながら何故か俺をじろりとにらみつけてくる。
「感想なんてひと言で済むわよ。最後まで見るまでもないわ」
「ほほう。では、さっそくお聞かせ願えますかな」
「わかった」
興味津々といった様子で身を乗り出す沙織を一瞥して、妹は軽く嘆息してから柳眉を逆立てた。
そして、可能な限りの侮蔑と嫌悪感を込めたまなざしでこちらを見据える。
「キモ。ねえ、死んでよお願いだから今すぐ」
なんなんだこいつは。いきなりなんて暴言を吐きやがる。
怒りよりも驚きのせいで言葉を失った俺に、桐乃は氷点下の態度で追撃してきた。
「聞こえなかったの? どうしてまだ息をしてるワケ?」
「おまっ、それが実の兄貴に向かっていう台詞か!?」
「だってめちゃくちゃキモいし。ホント、マジで死なないかな即座に」
妹はそう吐き捨てると、これ以上は目を合わせるのも嫌だとばかりに勢いよくそっぽを向く。
確かに、妹の友だちに対して邪な考えを持つなんざ、褒められたことじゃない。それはわかるが、もう少し言い方ってもんがあるだろう。
「まあまあきりりん氏、落ち着いてくだされ」
場に立ち込める険悪なムードを振り払おうとしたのだろう、典型的なオタファッションに身を包んだぐるぐる眼鏡はあくまでも友好的に取り成そうとする。
「これは、不可抗力ではありませんかな? 京介氏も、決して悪意があったわけでは……」
もちろん、それしきのことでうちの妹が大人しくなるはずはない。
「これが落ち着いてられるかっての! 鼻の下伸ばしちゃって、二度死ねヘンタイ」
なかなか面と向かって言われない単語を美少女が連呼する光景は、画面のあっち側だったらさぞ痛快だったことだろう。
しかし、ここで言い返せばくだらない喧嘩になるのは見えているし、少なからず後ろめたい気持ちはあった。腹は立つが、我慢するしかないんだろうよ。
俺は盛大にため息をつきたくなるのを飲み込んで、立ち上がった。
すると、人のいいぐるぐる眼鏡はあわてて声をかけてくる。
「あ、京介氏。どこに行くのでござるか」
「心配しなくていい。ちょっと手洗いだ」
「そうでござったか。なにやら拙者も催してきたので、お供をするでござるよ。きりりん氏はお茶でも飲んで待っていてくだされ」
桐乃は前を見つめたまま、顎を引いた。
幾度となく世話になっているこいつの言うことは、聞くんだな。
「さ、京介氏。厠はこちらでござる」
率先して案内を買って出たのは、あくまで俺と連れ立ってトイレに行くことが自然であると、アピールしようとしているのだろう。鈍い俺にも、さすがにわかる。
だから、俺は二人だけの今しかたずねられない質問を口にした。
「ところで、黒猫には声をかけなかったのか?」
「黒猫氏には、次回、参加していただいた方が盛り上がると思いましてな。ここはあえて厳選メンバーでの開催を企画したのでござる」
呆れて突っ込む気すら失った俺に、沙織は茶目気たっぷりに投げキスを飛ばしてきた。
まあ、ここにあいつまでいたら、収拾がつかなくなっていただろうからな。
コメンタリーじゃなく、ただの罵倒大会になっていたのは間違いない。
そして、戻ってきた俺を迎えたのは、小さく唇を突き出す妹の第一声だった。
「だいたいね、あんたは用心が足りなすぎるのよ。雨の匂いを感じ取って傘を買いに走るとか、できなかったわけ?」
「……そうだな」
今回のエピソードを評するまったく予想と違わない台詞に、苦笑交じりにうなずく俺の隣でぐるぐる眼鏡女は忍び笑いを漏らしていた。
言い過ぎた、と考えたのかどうかは知らないが、桐乃なりに、開催者を気遣ったんだろうぜ。多分な。
初の『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』SSに、手を入れてみました。
桐乃でなく黒猫を選んだのは、好みの問題でしょうか。
キャラ的には、沙織の方がおいしいので大好きなのですけれど、ね。
思わずござる、とニンニン語を使いたくなってしまいます。
というわけで、舞台裏で桐乃と沙織に登場してもらいました。
ちなみに、沙織の笑い方のこんな風に、はオメガの小文字にしたかったのですが、フォントの関係で表示されないことがあります。あしからず。
それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。
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