1.「年の瀬」へ


2.「誓い」


 年が改まって三日目の早朝、下ろし立ての衣服に袖を通した俺は、一人、キャリーバッグを引きつつ駅に向かっていた。
本日の空模様は澄み切った青がどこまでも広がる文句なしの快晴で、絶好の旅行日和だ。
年末から続いていた身を切るような寒さはすっかり緩み、時折、思い出したように北風が吹く程度で、当たりを引いた強運がなおも効果を発揮しているのかもしれない。

 三が日の最終日とはいえ、平日なら通勤と通学が重なってごった返しちまう駅前も、夜が明けたばかりのこの時間はさすがに人通りは少ない。
こうした見慣れない景色とのギャップもさることながら、新たな一年の始まりという意識があるせいか、なんとも新鮮だった。
お隣の中国じゃ派手に爆竹を鳴らして祝うらしいが、やはり、新年は厳かに迎えたいと思う。

 ぼんやり他愛もないことを考えながら歩いているうちに、駅が見えてきた。
とある科学の超電磁砲にも登場する、未来都市を思わせるモノレールがなめらかに視界を横切る中、腕時計を確認しようとして、ひと気のない待ち合わせ場所に立つ女の子が目に入る。
降り積もった牡丹雪をイメージさせるふわふわとした帽子を頭に乗せ、膝上丈の白地のコートに身を包み、淡いグレーのストッキングと白のローファーを履き、白いキャリーバッグを手にした、上から下までほとんど白尽くしの彼女は、とっくに俺に気づいていたらしく目が合うとにっこりほほえみかけられた。
妹の親友であり、可愛い後輩にして部活仲間、愛しい彼女でもある女の子の名前は五更瑠璃、あんたらもよく知る黒猫である。

「早かったわね」

 普通、待ち合わせ場所に先着したやつが口にすると嫌味でしかないんだろうが、見た目の印象から、もっと言えばおそらく本心から、こいつに含むところはない。
なにしろ、約束の時間まで優に二十分はある。ここは額面どおりに受け止めるのが正解だ。
しかし、結構余裕を持って家を出たつもりだったのに、どれだけ早く来てたのかね。

「すまん、待たせちまったか」
「いえ、今来たところよ」
「そうかい」

 お約束のやり取りを交わしつつ、黒猫の口もとから立ち上る白いもやを見るともなしに眺める。
それに気づいたのか、彼女はほんの少しだけはにかんだ。

「昨日はぐっすり眠れたか?」
「ええ、と言いたいところだけれど、布団に入った時間が早すぎたのかすぐに寝つけなかったわ」

 今日の旅行が楽しみだったからかもしれないわね、と続いた言葉にどきりとする。
そうでなくても今日のこいつは一緒にいるだけでどきどきしちまうくらい可愛らしいってのにさ。
そんなことを考えていたら、なんか緊張してきたぞ。

「ええと、さ」

 俺は落ち着かない気持ちをごまかそうと周囲を見回してから、再度後輩を見やってごくりと生唾を飲む。
昨日、クッションとセットで飛んできた妹の台詞を思い出したからだ。

『わかってるとは思うケド、会ったら開口一番、黒猫のこと褒めなさいよ』

 それくらい、言われなくてもわかってる、っての。まったく、お節介なやつだぜ。

「なあ、黒猫」

 ここは、意識しなけりゃいけないような場面じゃないはずだ。ただひと言、言うだけでいい。

「その服、似合ってるぞ」

 思いとは裏腹にぎこちない表情で言った俺に、黒猫はつぼみが綻びるように目を線にして笑った。

「ありがとう。これは、あなたの妹さんに付き合ってもらったのよ」
「そっか。そうだったのか」

 こういう話を聞くと、つい嬉しくなっちまう。
そういえばついこないだ、桐乃が朝から出かけていたっけ。
あいつが気安く遊べる相手なんざ、限られているからな。不肖の兄ながら、ありがたく思う。

 それはそうと、忘れないうちに済ませておかねばならないことがある。

「ところで、黒猫」
「なにかしら」

 俺は少しだけ姿勢を正し、表情を改めた。

「あけましておめでとう。今年もよろしくな」

 これを受けて、後輩もまた、心持ち立ち姿を正す。

「あけましておめでとうござます、先輩。こちらこそ、よろしくお願いします」

 やっぱりさ、一応メールで済ませてあるとはいえ、一年の始まりくらいは新年の挨拶をきちんとしておかなくちゃな。
親しき仲にも礼儀あり、とも言うしよ。
日本人としても、欠かしちゃならねえイベントだと思う。

 しかし、なんだな。こういうことを改まってするのは、存外照れくさいもんだな。

「さて、と。こんなところで突っ立ってるのもなんだし、中に入ろうぜ」
「そうね」

 規則的な足音とガラガラと小さな車輪が立てる音を聞きながら、俺たちは構内へと移動する。
その間、特に言葉はない。慣れ親しんだ穏やかでゆったりとした、くすぐったい沈黙が二人を包む。

 ややあって、後輩はふと思い出したようにつぶやいた。

「来年の今頃は、どこで新年の挨拶をしているのかしらね」

 それは、問いかけではなく独り言みたいなもんだったのかもしれない。
整った横顔をちらりと盗み見ると、返事を待ってはいないように感じられた。

 実際、どうなんだろうな。
先のことなんてわからないし、一年後の自分なんざ想像もつかねえ。

 けどさ。望みを口にすることくらいは、できる。

「さあな。それはわかんねえ。わかんねえけどさ」

 独りごちるように、語を継ぐ。

「そのときも、おまえと一緒だと思うぜ」

 きっとな。

「…………先輩」

 黒猫は緩やかに歩みを停止させ、遅れて足を止め振り向いた俺を真っ直ぐに見やる。

「奇遇ね。私も、そんな気がしているの」

 俺たちは互いの顔を見詰め合い、それから、頬を赤らめてうつむいた。


 特急車両の指定席に腰を下ろした途端、盛大に腹の虫がなった。
一度目を丸くしてから、くすくすと手を口元に添えて上品に笑う後輩に、苦笑で応える。
これだけ大きな音が鳴ったら、さすがにごまかしようがない。

「はは、ちょっと腹が減ってて」
「ちょっと?」
「いや、かなり。というか、なにも食べずに来たからさ」

 最初から車内で買うつもりだったからな。まったく、体は正直とはよく言ったもんだ。

「なんか、欲しいものはあるか? おまえの分も買ってくるけど」
「そのことなのだけれど、実は用意をしてきたの」
「へ? 食い物の?」

 勢い込んでたずねると黒猫はこくんと頷き、驚きの答えを返してくる。

「私が作ったお弁当でよければ、だけれど」
「まじで? 食う食う!」

 これはマジで嬉しいサプライズだった。まさか、作ってくれていたなんてさ。

「現物を見てもいないのに、少し気が早すぎるのではないかしら」
「なに言ってんだよ。黒猫が作って来てくれたことが嬉しいんだって。それに、おまえが作った弁当なら美味いに決まってるだろ」
「そんな風に、過度に期待されると……困るわ」

 すっかり大喜びだった俺は、ほんのりと赤みを帯びた後輩の顔を目にしてあることに気づく。
いくら料理に慣れているといっても、十分や二十分で弁当を作れるわけがない。

「なあ。もしかしておまえ、めちゃくちゃ早起きしたの?」
「そうでもないわ。ちゃんと、昨日の夜から仕込んでおいたから」
「へえ。さすが、段取りがいいんだな」
「そういうわけでもないのだけれど、妹たちに、ときどき作ってあげているから」

 自分にできないことってのもあるけど、こいつのこういう部分は素直に感心してしまう。
なんだかんだ言って、男は家庭的な女の子にぐっときちまうからな。

 だが、俺のテンションは弁当箱の蓋が開いた瞬間、青天井に跳ね上がった。

「すっげえ! これ全部、おまえが作ったの?」
「ええ」

 箱の中身と黒猫を交互に見やりながら、開いた口を閉じることができなかったのは、そこかしこに見え隠れする腕の冴えはもちろんのこと、込められた想いがひしひしと伝わってきたからだ。
 ウインナーは切り目を入れてタコの形に、デザートのリンゴはよくあるウサギと思いきや、しっかり目と鼻まである手の込んだ仕様で、定番のおにぎりや鳥のから揚げ、玉子焼き、彩を添えるための緑黄色野菜と物珍しい品はないものの、そこには食べる人を喜ばせようとする意思が感じられる。
特別ではないものだからこそ、こうした心尽くしは目を見張るものがあった。

 しかも、俺が呆けている間にお手拭を渡してくれたんだぜ? 感動のあまり、涙が出そうだ。

「じゃあ、いただきます」
「ええ、どうぞ」

 その上、美味いとくれば非の打ち所がない。
勧められるままに箸を進め、舌鼓を打つ。まさしく、至福のひと時である。

「私は一応食べてきたから、遠慮せずに食べて頂戴」
「おう。おまえにはすまないが、頼まれたって遠慮できそうにねえぜ」

 こちとら、成長期の男子だ。用意してくれた量はかなりのもんだが、残らず平らげちまえる自信がある。
旅は長いし、朝一番からさすがにそれはまずかろうと思う一方で、意識して自制しないと本当にやりかねない自分が怖い。

「……大げさね」

 頬をほころばせる後輩が見守る中、俺はなるべく控えめに旺盛な食欲を発揮し続けた。


 宿に着き部屋に荷物を置いた俺たちは、さっそく温浴施設へと足を向けた。
食事の時間にはまだ早いというのもあったが、芯まで冷えきった体を温めたかったからである。
入り口のところで一時間後にと別れて、たっぷり温泉を堪能してから脱衣所を出ると、見慣れた黒髪の女の子がすぐ脇で待っていてくれた。

「待たせちまったか」
「ついさっき、出たところよ」

 それにしても、だ。ゴスロリやホワイトロリータ、制服にごく一般的な私服、ジャージ姿など色んな格好を見てきたが、湯上りの上気補正を差し引いても、今日の格好は素晴らしいのひと言に尽きる。

「黒髪って、本当に浴衣が似合うよな」

 しかし、どういうわけか黒猫は俺の発言にわかりやすく眉をひそめた。

「聞き捨てならないわね。それは、いったい誰のことを言っているのかしら」
「おまえに決まってんだろ。他に誰がいるんだよ」

 まさか焼きもちか、と軽口を叩こうとした矢先、後輩はおかしみをたたえた瞳を向けてくる。

「わからないわ。誰か、ステキな人が中にいたかもしれないじゃない」
「赤城みたいなことを言うんじゃねえ」

 混浴ならともかく、同性しか見当たらない場所でステキもなにも、あるわけがない。
はっきり言って、男を相手にときめくとか、金輪際あり得んぞ。

「ゆっくりできたか?」
「ええ。人が少なかったおかげで、すべての湯を試すことができたわ」
「同じく」

 サウナの後に入った水風呂は心底気持ちよかったし、他にも打たせ湯とか色々、片っ端から入ってみたけれど、中でも印象深かったのは電気が流れてるやつだ。
あの感じは、慣れねえな。不快ではないものの、なんとも不思議な感覚だった。

 結局、最初と最後を飾ったのは沸いてくる湯を循環させずに使っているという触れ込みの広い浴槽で、まあ、俺にとってはシンプルなものが一番ってことなんだろう。

 あとひとつ、あげるとすれば……。

「奥にあった露天風呂に、気づいた?」
「そりゃもちろん。大自然をバックにちらつく雪の風情といったら、最高だな。本当、来た甲斐があったよ」

 露天風呂は入ってから出るまでずっと貸しきり状態だったから、随分とのんびりしちまった。聞けば今日は運良く泊まりの客が少ないそうで、こんなことはめったにないそうだ。

「ところで、ひとついいかしら」
「なんだ?」

 首を傾げる俺を一瞥してから、黒猫はすっと腕を持ち上げてある一点を指差した。

「お約束かもしれないけれど、一度、湯上りにやってみたかったの」
「ああ」

 指先を目で追って、生じた疑問は瞬く間に氷解する。
銭湯で見かける、体から湯気を立ち上らせながら牛乳瓶を傾ける、ってやつをやってみたいとこいつは言ってるのだ。

「じゃあ、俺はコーヒー牛乳にするぜ」
「私はフルーツ牛乳にするわ」

 建物も内装もきっちり新しくしてあるのに、瓶を冷やしているガラス張りの冷蔵庫は明らかに昭和生まれっぽいレトロな雰囲気を醸していて、この外観が懐かしさを誘うのか、俺たちが飲んでいる間に、三組、買っていった。狙ってやっているとしたら、いいセンスをしていると褒めるべきなのかね、これは。


 部屋でしばらくくつろいだ後は、用意ができたからと高級そうな店に場所を移しての食事タイムだった。

 いやはや、びっくりしたね。交通費を足さなくちゃいけないなんてけちくさせえ、なんて少しでも考えたのは間違いで、夕飯はあまりにも豪勢だった。
山の中だってのに鰤やらカニやら新鮮な海の幸は出てくるわ、山菜を始めとする特産品はどっさりあるわ、デザートはどこの凄腕パティシエを連れてきたんだ、っていう極上スイーツまで飛び出す始末で、ただで食べさせてもらうのが申し訳ないくらいだったのだ。

 しかし、である。
のんびりと飯を食い、食後のお茶をすすっている間に、冬特有の問題が生じていた。

「先輩」

 パソコンのモニターに釘付けだった俺が背後からの呼びかけに応じてマウスから手を放し振り返ると、黒猫はなにも言わずに首を左右に振った。

「そっちはどうだった……て、その様子だと聞くまでもないみたいだな」
「ええ。電車は動かないそうよ」
「やっぱりか。どうやらバスも止まっちまっているらしい」

 携帯ではまだるっこしいからと、ネットを使って調べみたのだが、交通機関は完全にマヒしていて、高速道路はおろか一般道も通行止めになっているらしい。
当然ながら、パソコンは家から持ってきたものじゃなく宿泊客ように解放されている、旅館のものを拝借したのである。

「参ったな。これじゃ、帰れねえぞ」

 ここから千葉は歩いて行ける距離じゃないし、自分だけならまだしも女の子連れではいつかみたいに自転車で、というわけにもいかない。
そもそも、車が走れないような雪の中を自転車で無事に移動できるわけがないんだけどさ。

「どうしたもんかな」

 考えたところで、打つ手はないような気がする。
平地と違って雪の中を走れる乗り物はあるんだろうけど、借りて帰ろうにも俺が免許を持ってないんじゃどうしようもない。
よしんば運転できたとしても長時間、移動できるだけの燃料タンクはなさそうだしよ。

「ねえ、先輩」

 椅子の上ですっかり思考の渦中に陥っていた俺は、再び話しかけられて意識を現実へと戻した。
後輩は視線の先でしばらくうつむき加減にもじもじとしていたが、意を決したのか、顔を正面に向けて続きを口にする。

「これは提案なのだけど、今夜はここに泊まるというのはどうかしら」

 まったく想像しなかった、といえば嘘になる。それでも、驚かずにはいられなかった。

「事情が事情だから、格安料金にしてくれると女将さんが言っていたわ」
「そっか」

 ひとまずうなずいて、思案する。これは困り果てた末の、窮余の一策なのか。
それとも次善の策か。この違いは大きい。

 なんだかんだ言って、俺は男だ。
外泊くらい、家に知らせておきさえすればなんてことはない。
けど、こいつは女の子だ。門限やその他、家のルールがどれだけ厳しいかはわからないが、少なくともうちより緩いということはないはずだぜ。

「一応確認させてくれ。おまえは泊まりでいいんだな?」
「ええ。他に方法はないし、先輩が一緒なら、不安はないわ」

 黒猫の顔色に変化はなかった。
どうしようもないため仕方がなく、というわけでもないらしい。

「わかった。それじゃ、女将さんの厚意に甘えさせてもらうとするか」

 それにしても、嬉しいことを言ってくれる後輩である。
絶対、こいつが心配しないように振る舞わなくちゃな。

「ところで、聞いてもいい?」
「ああ。知ってることならなんでも答えるぜ」

 黒猫は少し背伸びをして彼我の距離を握り拳程の近さまで縮めてから、囁きかけてきた。

「もし私がどうしても帰りたいと言ったら、あなたはどうするつもりだったのかしら」
「決まってるじゃねえか。なんとしてでも帰る方法を見つけようとしたさ。たとえ、可能性がほとんどゼロだったとしてもな」
「……そう」

 踵を下ろし、元の位置に戻った後輩は、受付に行ってくるわと言い残してこちらに背を向けた。

「待ってくれよ。俺も行くって」

 軽い気持ちで彼女の申し出に応じた俺は、この後、途方もない衝撃を受けることとなる。


「……!?」

 部屋に戻ると二つの布団が隙間なく並べられていた。
ご丁寧に、枕元にはティッシュ箱が置いてある。
おまけに、枕にはYESとNOなんて文字がプリントされているときた。
これって、両者の意思を尊重します、ってことか?

「これは」

 言葉が続かない。続けられるわけがない。
 だってさ、食事の前は押入れの中に布団が入ってたんだぜ?
それが、帰ってきたらこのざまだ。そりゃ、泊まることにしたけどさ。したけどよ。
ドラマや漫画では見かけるが、今時、こんなことをする旅館があるなんて、誰が想像できるってんだ。

 黒猫だって、唖然としているに違いないぜ。

「本当、女将ってばなんの冗談なんだろうな。まったく、笑っちまうぜ」

 黙り込んだら最後、気まずくなるのは目に見えている。
多少声を上ずらせながらもどうにか言い切ると、淡々とした言葉が返ってきた。

「気を利かせてくれた、のでしょうね」

 そりゃそうだ。客に嫌がらせをしようなんて発想は、よほどのことがない限り浮かんでこないだろうよ……じゃなくて!
おまえはこの状況を前に、どうして冷静でいられるんだ。

「なあ、黒猫。……黒猫?」

 返事がない。あれ? もしかして、ショックを受けすぎて固まっちまってんの?

「ええと、あの、黒猫さん?」

 顔を伏せちまったまま動かないところへツッコミを入れるのもどうかと思って様子を伺っていると、後輩はいきなりぽつりとつぶやいた。

「……これより、神聖なる儀式を行うわ」
「なんだ? いきなりなにを言い出すんだ黒猫」

 動揺する俺が聞いたのは、ひどく冷徹な声音だった。

「高坂京介」
「は、はい」
「この先、あなたが口にする言葉は嘘偽りのないものであると、誓いなさい」
「へ?」
「いいから誓いなさい」

 意図を咀嚼する暇もあらばこそ、黒の瞳にまっすぐ射抜かれて反射的にうなずいてしまう。

「わかった。誓うよ」

 でも、いったいどういうことなんだ。こいつはなにが言いたいんだ?

「いい心がけね」

 黒猫は目もとを鮮やかな淡紅色に染めたまま、恭しくうなずいた。

「これは、契約よ。解除のかなわない、魂の誓い。輪廻を経てなお、違うことの許されない約束」
「はあ」

 なんなんだろうな。不測の事態で混乱しちまった挙句、妙な電波でも受信しちまったのか。わかりにくいけど、こいつはあわてふためくとこんな風になるとか。

 と、そのときである。黒猫はすたすたと歩いていき、NOが表示されている、向かって右側の枕をひっくり返した。

 すでに儀式とやらは始まっているのだろうか。
でも、いったいなにがしたいのかさっぱり見当がつかない。

「黒猫?」

 こちらに背を向けたままの後輩への呼びかけに対する回答が返ってきたのは、たっぷり十秒以上が過ぎてからだった。

「これが私の意志」
「私の意志、って」

 それってつまり、文字どおりYESということ?
俺と、男女の関係になっちまってもいいってことなの!?

 だが、待て。待つんだ高坂京介。

 俺は叫びだしたい気持ちを必死に押さえつけた。
一人で勝手に暴走して、勘違いで終わるのは避けたい。
臆病と言いたいやつは好きなだけ言えばいいさ。
俺のことなんざ、どうだっていい。ただ、俺はこいつを傷つけたくない。それだけだ。

 とはいえ、さすがにこれは他に取りようがないよな。
でも、そういうムードじゃなかったような……。
 もちろん、嫌なわけじゃないぜ。そんなことは絶対にない。
めちゃくちゃ嬉しいし、今すぐにでも彼女を抱きたいというのが正直な気持ちだ。
それと、今時固すぎると思われるかもしれないが、責任を取る覚悟だってある。

 ただ、もしこいつがその気じゃなかったのに、雰囲気で流されちまっているだけだとしたら、俺は、涙を飲んで自分を制御しなくちゃならねえ。
確かに俺たちはカレカノだ。でもな、それと同時に、俺はこいつの先輩で、親友でもあるんだよ。
ここで、黒猫に無理を強いてしまったら、俺が俺でなくなっちまう。
胸を張って、黒猫の、五更瑠璃の彼や先輩や友人を名乗れなくなっちまう。そんな気がするんだよ。

 それでも、彼女を抱きしめたいという思いは、抑えきれそうになかった。

「黒猫」

 返事はない。ただ、さっきのそれとは少し意味合いが違う気がする。

 俺は散々迷った末に、正座をしたままそっぽを向いている黒猫に後ろから近づいて、華奢な体をそっと抱きしめた。

「……ッ」

 優しくまわした腕の中で、彼女は身を硬くする。
しかし、そのままの態勢を維持していると、次第に力みは緩んでいった。
程なく、浴衣の生地越しに安堵が伝わってくる。

「黒猫」

 耳元で名を呼ぶと、黒猫はくすぐったそうに少しだけ身をよじった。
何度もそれを繰り返すうち、預けられる重みが増していく。

 俺は、同じように声をかけてから、彼女の肩を抱きとめるような格好になるよう体を移動させた。
ドラマなどで見るような、仰向けの態勢にある女の子を宙で支える、あれだ。

「せん……ぱい」

 至近距離にある黒い瞳は、潤んで見えた。
見つめるうち、俺は引きこまれるように顔を寄せ、彼女の唇に自分のそれを重ねる。

「……ん」

 十秒、いや、二十秒、あるいはもっと長い時間だろうか。
気づけば布団の上に横たわる黒猫に、覆いかぶさる格好になっていた。

「これは、神聖な儀式なんだよな」
「……ええ」

 長い睫毛が微かに震え、閉じていた瞼が開かれて、切れ長の大きな目がゆっくりと開く。
俺を見つめながら、彼女はなにを思い、想うのか。

「だったら、誓うよ。俺は、我が主様に操を立てさせてもらう。一万年経っても今と変わらず、おまえとこうしていたい」

 正真正銘、偽らざる気持ちだった。ずっとこいつの側にいたいと、心から思う。

「……せん、ぱい」
「好きだ、黒猫」

 人間、愛しさがあふれすぎると、語彙が貧弱になっちまうもんだな。
元々、たいしたスペックを持ち合わせていないだけかもしれないけどさ。
いずれにしても、俺の胸を満たし、こぼれんばかりに湧き上がる想いを正確に言い表すことはできそうになかった。

「黒猫」

 柔らかな唇に、再びキスをする。その感触を確かめるように唇で挟み、軽く歯を立てる。
黒猫の呼気は乱れ、わずかに口が開いた。そこへ、舌を差し入れる。
並びのいい、やや小ぶりの可愛らしい歯列をなぞっていく。

 時折、唾液の味が甘く感じられるのは気のせいだろうか。
濃厚なキスを続けているせいか、意識は高ぶり思考があやふやになっていく。

 息をつごうと少しだけ顔を離すと、まるで追いすがるように迫ってきた唇が、俺の頬をかすめた。
愛しさのあまり、顔中にキスの雨を降らせる。
頬に、瞼に、鼻の頭に、触れるその度、かろうじて拾えるくらいの声を上げるのがたまらなくて、何度も繰り返してしまう。
 首筋に口付けると、黒猫は閉じたままの目をぎゅっとつぶった。
そのまま唇を這わせていき、耳たぶへと触れたときである。

「はン」

 艶を帯びた鼻にかかる声に動きを止めると、彼女は唇にぐっと力を込め、顔全体を真っ赤にしながら恨めしそうに上目遣いでにらみつけてきた。

「くすぐったかったか?」
「そうじゃないわ。そういうのではないの……あっ」

 最後まで聞かずに指で耳の縁を撫でると台詞は嬌声へと変わり、黒猫はあわてて俺の指をつかんでくる。

「だめよ。変な声が出てしまうわ」
「変なことなんてないさ。可愛いじゃねえか」
「可愛くなんて……ひゃぅ」

 耳たぶを甘噛みすると、いっそうすごい反応があった。

「おまえ、耳を触られて気持ちいいの?」
「恥ずかしいこと、言わないで」
「そっか。じゃあ、その代わりだ」
「え? ちょっと待って……きゃン」

 強めに耳を唇で挟みつつ舌で刺激すると、甲高い子犬のような声が上がる。

「あ、だめ……あ、はン」

 俺はつかまれていた腕を逆につかみ返すと、彼女の頭上で固定し耳の裏を舐め回した。
悶え、逃れようとするのに合わせて体を動かしつつ、その周辺を攻めていく。
 可憐極まりない反応を堪能し終えた頃には、黒猫は息も絶え絶えで、すっかり浴衣が着崩れささやかな胸の膨らみが半ば露になっていた。


3.「聖なる儀式」へ

ver.1.00 11/6/30
ver.1.55 12/7/19

〜俺が後輩と温泉で×××するわけがない・舞台裏〜

「今日はお兄さん、いないんですね」

 上がり框に足をかけたそのとき、扉が閉まる音と同時に後ろからそんな声が聞こえてきた。
うちの玄関はドアが開いてなくても日中は十分に明るいから、
返事をしようと振り返った瞬間、あやせがどんな顔をしていたのかばっちりわかってしまった。

「あ、気にしないで」

 無表情だった親友は自身の言葉に合わせて小刻みに手のひらを振って、
いつもの天使みたいな笑顔でほら、と付け加える。

「靴が、なかったから。聞いただけ」
「あ、うん」

 そういえば、昨日の夜から玄関をきんと片付けていなかったっけ。
一応補足しておくと、今のは兄貴の靴がないのを一目で見抜いたみたいだケド、そうじゃない。
何しろ履物は幾つか並んでいるものの、女物ばかりだから誰でも見ればすぐにわかる。
ま、わざわざこんな注釈を入れなくても、あやせがあいつのことを、とかあり得ない話よね。

「京……あいつはちょっと出かけてる」
「そうなんだ」

 興味がなさそうにつぶやいた横顔は、あたしの考えをしっかりと肯定していた。
信州がちょっとの範疇かどうかはわからないケドどうせすぐに帰ってくるし、
そもそも、詳しい話なんて別に聞きたくないだろうから問題なし。
出かける前とか、すっかり舞い上がっちゃって、バカじゃないの。
あーあ、イヤなものを思い出しちゃった。気分悪い。

「でも、珍しいね。あやせがあいつのことを気にするなんて」
「そう、かな」

 あやせは小さく首を傾げてから、曖昧にほほえむ。
だけどそれはごく短い間のことで、すぐに、綺麗に整えられた柳眉が少しだけ釣り上がった。

「わたしがあの人のことを気にするなんて、あるわけないじゃない」
「そっか。そりゃそうよね、ごめんごめん」

 あやせみたいな美人に嫌われていることに関しては、さすがに同情する。
シスコンの変態と思い込んでるから、当然といえば当然なんだケド。
前者については言わずもがな、後者に関してもフォローできないくらいひどいし。
あたしばかりか友だちにまで平気でセクハラするんだから、
本当、あの変態ぶりはどうしようもないよね。

「とにかく今、家にはあたしだけだから。ゆっくりしていってよ」

 京介が帰ってくるのは夜になってからだし、そういう意味でもちょうどよかったのかもね。
そんなことを考えながら部屋に移動しようと前へ向き直りかけたところで、足が止まってしまう。

「あんな嘘つきと顔を合わせるなんて」
「え?」

 思わず素で聞き返してしまった。
きっとそれは、こちらに聞かせるつもりなんてない独り言のようなものだったんだと思う。
でも、あたしが驚いたのはそういうことじゃない。
強く込められた感情の色が、嫌悪に満ちたものではなかったからだ。

「桐乃、どうかした?」
「え、いや、なんでもないよ。なんでも」

 やや引きつった笑みで応えて、あたしはくるりと階段の方を向く。
  どうやら、胸の内を口にしてしまったという自覚はないらしかった。
つまり、さっきのは無意識の言葉ということだ。

 なにがあったのは知らない。だから、その意味はわからない。
でも、誰に対して放ったものなのかはわかった。誰を想って言ったのか、わかってしまった。

「あやせ、あんたまさか……」

 口にしかけた言葉を飲み込んで、うめく。まさか、よね。
あたしの親友に限って、そんなこと、あるわけがない……よね。



 本作品は10月10日よりメロンブックスにて販売されている『俺が後輩と温泉で×××するわけがない』の一部です。
ご覧のとおり黒猫と京介のラブストーリーでございまして、R18の内容となります。
続きは、たいへん申し訳ありませんがご購入の上、お楽しみくださいませ。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。



俺の妹がこんなに可愛いわけがない!?小説お品書き
その 他の二次創作SSメニュー
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