1『“恥”的好奇心』へ


2『重い代償』


「とうま、ただいまー」

 本来、収入に応じてその割合が小さくなるとされているエンゲル係数の概念を覆すのではないかと目される異次元の胃を持つ同居人、インデックスが帰って来たのは土御門から怪しすぎる物を受け取ってから三十分後、日が暮れようとする頃だった。

「おう、インデックス。おかえり」

 そろそろ戻るだろうとフライパンを片手に炒め物を作っていた黒髪の少年は、焦げつかないよう菜箸で野菜をかき回しつつ、瞳を和ませて白地に金の刺繍が入った修道服に身を包む少女に答えると、手の甲で額に浮かんだ汗をぬぐう。
夏真っ盛りの時期は過ぎ、残暑もすっかり和らいできたとはいえ、火を使えばまだまだ暑い。

「ねえとうま、ごはんは?」
「もうちょっと待ってろ。直にできる」

 今まさに出来上がろうとしている料理は、もやしとキャベツに豚の細切れを混ぜ込んだお手軽な一品だ。
世間ではとある番組で紹介されて以来売上急上昇中のもやしだが、色々と苦労の多い生活を強いられている上条当麻が、栄養価が高く安価なこの野菜に着目しない訳はなく、流行に関わりなく以前からしっかり活用していた。
一時は品薄となり値上げも危惧されたが、幸い生産力に追いつかない程ではなかったらしくそうした事態は避けられたのである。
逆に、人気化したおかげで様々なレシピがネット上で出回るようになったため、重宝しているくらいで、親元を離れての生活、しかも底なしの食欲を持つシスターとの共同生活を営むにあたってもやしは欠かす事ができず、いくら感謝してもし足りない程ありがたい食材なのだった。

 元々面倒見がよくまめなところのある上条だが、大食いの女の子と同棲するようになって自然と主夫スキルが上がっている。
それでも、次の仕送りが待ち遠しいのが常態化しているのは、何故だろうか。100%の確率で、餓えのせいで。

「ただいま、スフィンクス」

 インデックスの呼びかけに応じて、座布団の上で身を丸くする子猫はなー、と一つ鳴いた。
しかし、相手をする気はないらしく擦り寄っては来ない。
気まぐれな生き物であるため仕方がないと割り切っているのか、少女は気にした風もなく同居人に近づいていく。

「今日は疲れたよ」

 インデックスは、汗だくになってフライパンを振るう少年の動きを邪魔する事がないよう気をつけながら可能な限りぴったりと寄り添った。
本人にその意識があるかどうかは不明だが、要は甘えているのだ。

 しかし、この手の機微に疎い上条は彼女の行為に込められた想いには気づかない。

「何をしてたんだ?」

 意識は手元に注ぎつつも、少年はちらりと横目で隣のシスターを見やる。
立ち上る香ばしい匂いに反応しているのか、鼻がひくひくと動いていた。

「こもえの部屋であいさとお茶をしてたんだよ」
「そうか」

 短く答えて上条は安堵から口の端を緩める。相変わらず二人は仲良しらしい。

(本当、あいつの存在には助けられているよな)

 もし姫神がいなければ、インデックスは今よりもずっと暇を持て余す時間が増えるに違いなく、ぽつりぽつりと話すあの黒髪の巫女に彼は心から感謝していた。
何かの形で礼をしなくては、とも思っている。
ただ、その理由が純白シスターだと知れば彼女の心中は複雑だろう。
まったくもって、罪な男である。

「それで、今日はどんな料理でこのたまりにたまった疲労を癒してくれるつもりなのかな。気のせいか、もやしの袋がたくさん見えるのだけど」
「お茶しただけでどうしてそんなに疲れがたまるんだ」
「話題を変えてごまかそうとしたって無駄なんだよとうま。質問に質問で答えるなんて、聖人にだって認められてないんだよ」
「いいのか、仮にも聖職者がそんな事を言っちまって」

 匂いに刺激されて食欲が活性化しているのか、飢えた銀髪シスターは無茶苦茶言い出した。

「だが、心配するなインデックス。今日はタンパク質もありだ」
「そうやって安心させて、ごはんが植物性のタンパク質オンリーだった事もあるから油断できないんだよ」
「安心しろ。ちゃんと動物性のものも入っている」
「本当!?」
「ああ、嘘じゃないぞ」

 量はさておき特価だった豚の細切れが入ってあるため、一応嘘ではない。
ただし、あまり期待を抱かせると後でえらい目に合うのは想像に難くなく、かと言って今ここで真実を口にできるほど上条の神経は太くなかった。
目に星のマークを幻視してしまうのは、インデックスが肉を楽しみにしているからに他ならない。

「それより、どうして疲れたんだ?」
「うん、それがね。ヘンなものを見つけて、あいさと二人延々と悩んでいたからなんだよ」
「変なもの、ねえ」

 幻想殺しの少年はつまみをひねって火力を落とすと、少女の顔を見やり不思議そうに少しだけ首を傾けた。
完全記憶能力を持つ彼女は、思い出す事に何の労力も必要としない。
脳内で、それこそ写真を見るように色や形、艶や紙袋に入った皺に至るまで、機械的にその場面を再現する。
保存してあるデータを開くのと同じと考えれば良い。文字どおり、彼女はあらゆる光景を、言葉を、文字を、再現できてしまう。

「身につけるもの、というのはわかるんだよ。ただ、見た事のない作りでね。何か、つるつるした素材でできた皮製の水着みたいな……ってとうま、どうかした?」
「いや、何でもない。何でもないんだインデックス」

 まず己の耳を疑い、直後にフライパンを放り出したい衝動に駆られた少年だったが、すんでのところでそれを押さえて返事をした。

(おいおいおいおい、それって土御門が持ってきたアレと同じなのか……? っつーか、何でそんなもんが先生の部屋にあるんだよ!?)

 なるほど、彼女の感覚からしてみれば妙と表現するしかないであろう。
普段着に使うにはあまりに露出度が高すぎるし、海辺やプールで着るような代物でもない。
一体何のために使うのか、想像もつかないはずだ。

「しかもね、こもえが着れるようなサイズじゃなかったんだよ。あいさは知らないって言ってたけど、あの子にはちょうどいい大きさだったかも」
「へえ」

 後ろめたい事情がなければもう少し詳しく聞かせてもらいたいところだったが、やぶ蛇になってしまって困るのは上条である。
これは適当にごまかすしかないな、と内心冷や汗ものの心地でいると、くいくいと裾を引かれた。

「ところでとうま。あの紙袋はなに?」
「へ?」

 少年が少女の指差すものを認識すると同時、超弩級の衝撃が彼を襲った。

(しまった……!)

 彼が叫び出さなかったのはほとんど奇跡に近い。
あわや取り落としそうになっていたフライパンを持ち直して、上条は即座に決意する。

 インデックスの意識はこの場においてどんな破壊力を持つ爆弾をも上回るそれに向かうはずで、

「あれ? これってこもえの部屋で見たものと同じ袋じゃ……」
「と、とぅるるるるるるん」

 少女のつぶやきを遮る形で黒髪の少年は奇妙なコール音を口にした。
きょとんとした顔でこちらを振り向くインデックスに、有無を言わさず柄のついた平たい鍋と菜箸を押しつける。

「うお、電話だ。すまん、インデックス。これ、ちょっと持っていてくれ!」
「え? ちょっと、え、あ、わ」

 純白シスターはあわてながらも素直に手渡されたものを受け取って、こぼさないようにと体は動かさずに首だけで少年の姿を追った。

「ああ、そうかそうか、ごめん」

 上条は携帯電話のフリップを開いて通話した振りをし、当人としてはさり気なく、現実には見るからに挙動不審な様子で紙袋を手にして玄関へと歩き出す。

「って、どこに行くのとうま」
「いや、そういえば返さなきゃいけなかったのをすっかり忘れててな。ちょっと行ってくる」

 少年はやや抑揚に欠ける返答をしながら靴に足を突っ込みそのまま家を飛び出しかけたが、思い出したように立ち止まって次の台詞を付け加えた。

「悪い、すぐ帰るから! それ、食っててくれ! そうだ、取り皿は後ろのヤツを適当に使ってくれれば良い」
「もちろんそうさせてもらうけど、いきなりすぎるんだよ? ねえ、とうま!」

 上条はインデックスの呼びかけを無視せざるを得なかった。
この危険物はロッカーに入れるなり何なりして持ち帰りさえしなければ適当にごまかせる。
ただ、最悪の事態を避けるための措置とはいえ、戻ってきたらガブリと噛みつかれるのは間違いあるまい。

(取りあえず何か甘いもんでも買って帰るか。ないよりはマシだろうし。……高確率で問答無用に襲われそうだけど)

 少年は深くため息をついて、不幸だ、とぼやいた。



(もう、最悪)

 淫らな着衣に身を包んだ電撃使いの少女は、ベッドに座り込んだまま天井を見上げた。
いくら脱ごうとしてもしっかりと固定されていてにっちもさっちもいかないのである。

 二の腕から下、手の甲までと太ももの半ばから足首にかけて衣装の下に隠れているのは、全体の強度を高めるために施された措置だろう。
肩や胸元、腹部にVゾーン付近の際どい部分が丸見えで、その対比としての視覚的なエロチシズムを醸し出す効果も兼ねていた。

 機能的に、そしてある用途に関してはよくできた服と言える。
簡単に脱げてしまうようでは用を成さない、という事か。

「どうなってるのよこれ」

 もちろん今の美琴に冷静な分析をする余裕はなく、ままならない現状に口をついて出るのは泣き言ばかりだ。
彼女はいかなる電子ロックであってもたやすく開錠できる。
しかしこの服につけられた鍵は原始的なものであるために、逆に鍵なしではどうする事もできない。

 素材は本皮のようだが、ワイヤーで強化されているため力で引き裂くことはかなわない。
電撃を浴びせれば焼き切れるはずだが、それは避けたかった。
何しろ完全にフィットしている上肌に直接触れているため、どれだけ慎重に加減を調整してもヤケドは避けられないからだ。

 学園三位と言っても御坂美琴は紛れもない年頃の少女であり、万が一にも跡が残るような傷を負ってしまったらと思うと二の足を踏んでしまう。

 いつになく弱気になっていた美琴はツインテールの後輩を思い浮かべた。

(黒子の帰りを待つ? ダメ、そんなのあり得ないわ)

 考える余地などない。
そんなことをすれば弱みを握られる事になるし、元はと言えばこんなものを用意したのは白井なのだ。調子に乗って何を言い出すかわからない。

(だからって、こんな事、初春さんや佐天さんに頼むわけにもいかないし)

 美琴はきゅっと下唇を噛み締めてうつむいた。
他人にお願いできるようなことではないが、知人であるから頼み難いのは確かだった。
いくら自分のものでないとはいえ、だったらどうしてそれを着たのかとたずねられれば答えに窮するのは目に見えている。

 何となくそうしてしまった、では理由にならない。
これは、どれだけ寝ぼけていたとしてもうっかり着てしまうようなものではないからだ。
寝ている間に着せられていたのならともかく、言い訳のしようがなかった。

 はっきりと自分の意思で袖を通してしまった事実がある手前、友人の協力を得ようにも生真面目さが邪魔をして適当な嘘をつけそうにない。
だからと言って、まさかバカ正直に『興味が沸いたから』などと答えられるはずがない。

(私……)

 少女はおずおずと視線を持ち上げて鏡を見やった。
そこに映るのは羞恥で顔を真っ赤に染めた一人の少女だ。
肌もあらわなボンデージを着た姿は十八歳未満が買えない本に載ったアイドルのようで、それなのに、こんな格好をした自分を見ても嫌悪感が沸いてこない。

 信じられなかった。否、信じたくなかった。
むしろこの状況でぞくぞくとしているなど、信じられるわけがなかった。

「……っ」

 美琴はたまらず下を向いた。
少なくとも、鏡に映っていたのは淫らな衣装を脱げずに困っている者の表情ではないとわかる。

(これじゃあ、黒子のこと言えないじゃない)

 ますます頬に血が上るのを覚えて、少女は口中うめいた。
この事が世間に知られれば常盤台のエースは性癖においても突出した才能を持っている、と揶揄されるのかもしれない。

(とにかく、今はどうやってこれを脱ぐか。それだけを考えなくちゃ)

 雑念を持ち前の集中力で強引にねじ伏せて、美琴の思考はすぐに行き止まる。
欠陥電気(レディオノイズ)の時とはまったく違う意味で、助けを求める相手がいないのだ。

「学校関係者はダメ、親なんてもっとダメ。あとは」

 他に頼れるヤツなんて、と少女は胸中こぼしてはっと息を飲んだ。
窮地に陥った彼女を傷だらけになりながらも幾度となく助けてくれた、ツンツンと尖った黒髪の少年の顔が頭をよぎったからだ。

 しかし、である。

(ダメだってば、そんなの)

 美琴は激しくかぶりを振って思いつきを否定した。

(頼めるわけ、ない)

 あり得ない、と何度も口に出すことで彼女は頭を真っ白にしようとする。
そんなことを考えた事実そのものを記憶から消し去ろうとするかのように、そうすれば上書きされて忘れられるとでも言うように、繰り返す。
 だが、幻想殺し(イマジンブレイカー)の少年はかえって強く意識に残った。
いつかのように、追い払おうとしても立ちふさがる。いくら跳ね除けてもなお、手を差し伸べてくるのだ。

 人の頭の中にまで出てくるとは、お節介にも程がある。
それでも彼は、我が身を省みることなく困った人を救おうとするのだ。

(アイツはきっと、何とかしようとしてくれる。だけど、だから……)

 ふと、脳裏に浮かぶ上条がほほえんだ気がした。
同時に、ぴったりと身を締める着衣がまるできゅっと抱きしめられているように感じられて、美琴は激しく赤面する。

「何を考えてるのよ」

 耳まで熱い。全身が火でもついたかのように熱かった。

(もお、やだ。もう、私、やだ……っ)

 少女は恥ずかしさのあまり身もだえし、前髪から火花を散らせながら握り拳でベッドの布地をぼふぼふと打つ。

 このまま一人で悶々としていれば、きっと羞恥心で死んでしまう。羞死する。

 しばらく経ってわずかながらも落ち着きを取り戻した美琴は、頭痛をこらえる時のように額に手のひらを押し当てた。

(どちらにしてもコート姿で食堂には行けないし、それをどうにかやり過ごせたって黒子にはバレる。それだけは断言できるわ)

 開き直ってここに留まるにせよ、誰かに助けを求めるにせよ、決断をくださねばならない。
とはいえ、前者を採るつもりは皆無であるのだから、迷っていても始まらないのだ。
何しろ速やかに事態の解決を図らなければ結局この件は白井の知るところとなる。
それだけはなんとしても阻止する必要があった。

(考えろ、必死になって考えるのよ美琴)

 少女は藁にもすがる思いで力になってくれそうな知人を検索していく。
(……誰か、そうだ、冥土帰し(ヘヴンキャンセラー)!)

 あのカエル顔の医師ならば間違っても秘密を漏らす事はない。
そう考えれば、あるいは最良の選択かもしれない。
美琴はダッフルコートを羽織ると、人目につかないよう細心の注意を払いながら部屋を後にした。



 希望が大きいと、それが破られた時の落胆は大きいものだ。

「は?」

 人通りの絶えた河川敷、橋脚が生む暗がりで美琴は絶望的な思いで聞き返していた。

「海外出張、ですって?」
『はい、申し訳ございません。今頃はヨーロッパに向かう機上にあると思います』

 対応してくれた女性看護士は同情に満ちた声でそう言って、では、と受話器を置く。
ツー、ツーという無機質な音を無言で聞きながら、少女は膝から崩れ落ちるようにへたり込んだ。

(嘘でしょ? だったら、私はいったいどうすればいいのよ)

 見ず知らずの医師に頼むという手もあるが、この町で彼女を知らない者はまずいない。
人の口には戸が立たないもの、噂はあっという間に広がる事だろう。

 その時だった。

「お姉様」

 ぎくりとして美琴が振り返った先、なだらかな斜面には自分と瓜二つの少女が立っていた。
他人の空似ではない。
ある実験のために御坂美琴の細胞から生み出されたクローンなのだから、似ていて当然だった。

「……アンタ、どうして」

 我知らず襟元を寄せつつ、美琴はかすれた声でたずねる。

「たまたまお姉様の姿を見かけましたのでやって来ました、とミサカは立板に水が流れるような淀みない事情説明を行います。それよりも何やら心拍数が不安定です。どうかされたのですか、とミサカは気遣いの眼差しで問いかけてみます」

 感情を映さない瞳で遺伝子情報を同じくする人を見つめながら、御坂妹は小首を傾げた。

「ちなみに私は検体番号10032号です、とミサカは老婆心ながら言い添えます」
「それは何となくわかってたけど」

 もし勘付かれたらどうしようと心臓をばくばくさせつつも、美琴は引きつり気味の笑顔をなんとか保持する一方で立ち去る口実はないかと思案をめぐらせる。

「ところでお姉様、コートを着るにはまだ早い季節だと思うのですが、一人川原でカロリー消費に努めていらしたのですか、とミサカは心持ち控え目にたずねます」
「あー、そうそう。実は近頃食べすぎちゃってね、ちょろっと見られない体になってるんだわ」

 渡りに船とばかりに検体番号10032号の台詞に乗っかった常盤台のエースは、そういうわけだから、といったん踵を返しかけてはたと動きを止めた。

「もう一つ、私とここで会ったことは内緒にしといて。ほら、胸を張れるような話じゃないし」
「わかりました、とミサカは口外しないことを約束するうなずきを返します」

 頭を下げる自分のそっくりさんに、美琴は軽やかに腕を顔の高さに持ち上げる仕草をもって別れの挨拶とする。

 取りあえずうまく切り抜けられた事に幾ばくかの安堵を覚えながら、しかし彼女の口元に浮かぶのは自嘲的な笑みだった。

(今さら口止めしたところで仕方ないのに、ね)

 電撃使いの少女はそうした思いを振り払おうと草むらの坂を駆け上ろうとしたのだが、一歩踏み出した時点でぴったりとフィットした着衣に股間や胸元を強く刺激され、心持ち内股になりながらゆっくりと歩くのが精一杯だった。


「あ……」

 我に返ると、そこはひと気のない公園だった。
直後、蹴りの対価としてジュースを吐き出す自動販売機が近くにあることを知って少女は苦笑する。
失意のまま歩き回っているうちに、いつの間にかここまでやって来ていたらしい。

(そういえば、泥酔して記憶をなくしても家に帰れるのはそれが習慣として脳に記録されているから、って聞いた事があるわね)

 虚無的な思いが胸を支配する中、電撃使いの少女は天を見上げた。
今日は新月らしく、星明りのみが夜空に瞬いている。

 美琴は取り出した携帯電話のフリップを開いて、すぐにコートのポケットにしまった。
今のところ着信はなく、メールも入っていない。
つまり白井はまだ部屋に帰っていないということだが、だからと言って何の慰めにもならなかった。
頼みの綱は海の向こうで打つ手はなく、もはやこのことを知られるのは時間の問題なのだ。

(バカな事しちゃったな。今更、だけどさ)

 常盤台のエースは眉尻を下げて息を吐き出した。

(こんな時、アイツがいてくれたら……)

 思わず胸の中で独りごちて、美琴ははっと息を飲む。
そして、そんなことはできないと言いながら結局()にすがろうとしている自分が無性におかしくて、笑いたくなってしまった。

 できるわけがないことを考える自分がこっけいでならなかった。

 その時である。

(いきなりこんなことを、いったいどの面下げて事情を説明すればいいってのよ)

 少女が奥歯を噛み締めた次の瞬間、世界からすべての音が消えた。
正確には、そう感じさせるだけの精神的なショックが彼女を襲ったのである。

「もしかして御坂か?」
「……ッ!!」

 よく知った声を聞いた美琴は凍りついたように身をこわばらせた。

「めずらしいな、こんな時間に」

 おそらく学園都市の男子で一番気安く話しかけてくるその少年は、振り向かない電撃使いの少女の元へいつもの調子で近づいてくる。

(どうしよう)

 よりにもよって、もっとも顔を合わせたくなかった人物と出会ってしまうとは。

(どうしよう)

 まさか、このタイミングで上条当麻が現れるなんて。

(……どうしよう)

 それなのに、言葉にし難い熱い何かが体の最奥でうずいているのだ。

(……私、興奮してる)

 美琴は息をすることも忘れて、夜気に響く少年の足音を聞いていた。
我知らず、舌の先で唇を舐めながら。


第3話『覚醒、そして』へ

ver.1.00 09/07/12
ver.1.80 13/10/6

〜とある乙女の恥的好奇心・舞台裏〜

「まったく。とうまはいつもそうなんだよ」

 純白シスターは頬を膨らませたままぶつぶつとつぶやきながら、菜箸を使ってフライパンの中身をかき回していた。
上条のように慣れた手つきではないものの、意外に危なっかしいものではない。
もっともこれは彼女が調理スキルを身につけたわけではなく、単に焦げつかないようそうしているだけであり、あとは余熱を加えるだけで完成するからとすでに火が落とされているため、火事の心配はまずないとみていい。
急を要していたとはいえ、さすがに部屋がなくなるようなリスクを失念するほど幻想殺しの少年は間が抜けていなかった。

 それにしても、である。

「……いい匂い」

 嗅覚方面から食欲をそそられたインデックスの空きっ腹はぐうぅぅぅぅ、と盛大な音を立てた。
キャベツはしんなりと玉ねぎは香ばしく焼きあがっている。
もやしは炒める前に湯通しした、シャキシャキの食感が楽しめる仕様だ。
量的には多くないが豚の細切れが食べ応えを与え、値段の割に満足度の高い一品で度々上条家の食卓に並ぶ主力選手でもある。

「あとはこれをお皿に移して、と」

 純白シスターは言われたとおり食器棚から皿を取り出し、フライパンを傾けてざっと箸でかき寄せた。
多少、ステンレスの台にこぼしてしまったが、それは素手でつかんで口の中に放り込んで布巾でひと拭きして速やかに証拠を隠滅する。
これまでに幾度か食事の準備を手伝うことのあったインデックスは、いつしかこうする事で失敗をごまかす術を覚えた。

 ただし、気づかれていないと考えているのは本人だけで、上条はちゃんと把握している。
作り手からすれば食べ物が無駄になっているわけではないので何も言わないだけのことだ。

 純白シスターは野菜炒めを盛った皿をテーブルに置き、茶碗にご飯をよそうべく炊飯器へと足を向けかけたその時、突然電話のコール音が鳴り響いた。

「……!」

 それまでのご馳走を前にはしゃいでいた様子はどこへやら、インデックスは明らかに緊張した様子で呼び出しを続ける電話機から距離を取る。

(うう、やっぱり苦手なんだよ。誰? もしかして、とうま?)

 二十秒ほど経過してもまだ鳴り止まないコール音に、銀髪碧眼の少女はようやく意を決したのかおそるおそる近づき始めた。
だが、受話器に手を伸ばしたところで呼び出しは途絶え、うんともすんとも言わなくなった電話機に彼女はぱちぱちと瞬きをして首を傾ける。

 そのまましばらくの間、正座で通話のための装置をびくびくしながら覗き込んでいたインデックスだったが、呼び出し音に脅かされる心配はなくなったと判断したのか満足そうにうなずいた。

 そこで、思い出したかのようにぎゅるる、と腹の虫が鳴く。
体は正直なもので、懸念事項が片付いた途端に空腹感が押し寄せてきたのだ。

「……」

 純白シスターは生唾を飲んで、先ほど同居人の少年が口にした台詞を思い浮かべた。
すぐに戻ると言っていたが、先に食べておけとも言っていた。
そして今、目の前には熱々の湯気が立ち上る野菜炒めがある。

「やっぱりご飯はできたてを頂かないといけないんだよ」

 インデックスはおざなりに食前の祈りを済ませると旺盛な食欲を発揮し始めた。



 恥力査定、第2話です。
当麻とインデックスの掛け合いについ力が入ってしまい、思った以上に量が増えてしまいました。
あくまでもこの物語のメインは美琴ですのにね。
というわけで、第3話は美琴と当麻、二人きりで展開します。
伏線の回収は、いずれ。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。
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