「なにやってんだ?」

 自室の扉を開いた俺は、二、三歩中に入ったところでふと違和感を覚えて振り返り、目を瞬かせた。
ここまで言われなくてもついて来ていた黒髪の後輩が、
どうしたことか入り口の手前で足を止めていたからだ。

「どうしたんだ? 遠慮しないで入ってこいよ」

 呼びかけると、黒猫は少し驚いたようにこちらを見やった。
つい今しがたまでいつもどおり話をしていたし、
こいつが俺の部屋に足を踏み入れるのを躊躇する理由なんざないはずだ。
なにか考え事でもしていたのか。あるいは急用でも思い出したのか。

「一応言っておくけれど、あなたの部屋に入るのを遠慮していたわけではないのよ。
先輩とは同じベッドで寝た仲だもの。今さら、なにを遠慮することがあると言うのかしら」
「なっ、いかがわしく聞こえるようなことを言うんじゃねえ!」

 反射的に、半ば声を裏返らせて叫んでいた。
とんでもないことを言いやがる。顔が熱いじゃねえか。

「向きになることはないじゃない。恥ずかしいでしょう、莫迦。呪うわよ」

 ほんのりと目元を桜色に染めながらとってつけたような憎まれ口を叩く姿は、
思わず抱きしめたくなる可愛らしさだった。
軽くクイーンオブナイトメアモードで言ったところをみると完全に冗談のつもりだったんだろうが、
俺が思いきり反応しちまったせいで、照れが伝わってしまったらしい。

「まあ、とにかく入ってくれよ」
「……ええ」

 それでも、微妙なぎこちなさはすぐに消えて、
室内をぐるりと見回したときには、いつもの黒猫に戻っていた。
こいつといると、家族とか麻奈美とかとはまた違う安心感があるんだよな。
誰よりも気の置けない相手、つーかさ。

 ともかく、俺たちはこんなやり取りができるくらいには、長い付き合いになっているわけだ。
格好悪いところも人様には見せられないような恥ずかしいところも、こいつには見られている。
さすがにベッド下に隠してある秘蔵の雑誌をつぶさにチェックされるのは勘弁だが、
今さら見せられないようなものはそうないだろうよ。

「さて、と」

 適当に座ってくれよ、と言いかけたそのとき、目が合ってじっと見つめられていることに気づいた。

「先輩」
「なんだ?」
「少しじっとしていて」

 そんなつぶやきをこぼして、黒猫はなんだと思う間もなく距離を詰めてくる。
不意の接近にどぎまぎするのもお構いなしに、無愛想な彼女の顔が近づいてきた。
なんなんだ。まさか、キスされちゃうの?

 黒髪の後輩は動揺のあまりフリーズしちまっている俺の肩口から首の辺りをすんすんと嗅いで、
頬を緩ませながら一歩下がった。

「いい匂いね」
「へ?」

 まったく想像もつかない台詞に、思わず問い返す。
だが、続く言葉は半分独り言のようなものだった。

「これは、香水ではないわね。シャンプーかリンスを変えたのかしら」
「ああ……」

 ようやっと得心がいく。
さっき、こいつが足を止めたのもこれが原因だったわけだ。
そして、俺が香り付けされちまっているのは、
いきなり色気づいて香水を使い始めたわけでも洗髪剤を変えたわけでもない。

「いや、実はさ。あいつにミカンをぶつけられちまってよ」
「は?」

 さすがに予想外の答えだったようで、黒猫は目を丸くした。
そりゃそうだわな。先輩の体から柑橘系の匂いがします。理由は、妹にミカンをぶつけられたからです。
そんな発想、ねえわ。

 確かにあいつはカッとなると無茶するけどさ。
親父に灰皿を叩きつけようとしたこともあったしな。
……持ってたのがミカンでよかった。

「それで、先輩を蜜柑でマーキングした女はどこへ行ったのかしら」
「知らねえよ。さすがに気まずくなったのか、出ていっちまった」

 顔とか洗ったんだけどな。服にもかかっていたらしい。

 ちなみに、ぶつけられた食いかけのミカンは俺が食べてやった。
びっくりするくらい甘かったんだぜ。あのときの桐乃の顔といったら、胸がすっとしたよ。

 閑話休題。

「先輩に怪我がなかったからいいようなものの、まったくあの女は」
「そう言うなって」

 俺のことを心配して怒ってくれるのは嬉しいけどさ。
あいつとのいがみ合いなんて、日常茶飯事だ。横暴なのも今に始まったことじゃない。

「ありがとうな。だけど、おまえまで怒ることはねえよ」

 白のカチューシャに飾られた艶やかな黒髪にぽんと手を置くと、黒猫は口を開こうとして、黙った。
それに、ものは考えようだ。俺と妹の関係はお世辞にも良好とは言い難い。
けどな、冷戦時代を思えば見違えるようなコミュニケーションの図りようだぜ。
互いを無視し合うこともねえしよ。たまに、とはいえ感謝もされるようになったしな。

 それに、あれだよ。いつも素直だと、逆に調子が狂いそうだ。
だから、これくらいでちょうどいいのさ。

「まあ、悪気があったわけじゃないんだろうし」
「そういう問題ではないわ」

 もっともなツッコミだった。確かに、全然フォローになってねえよな。
腹が立ったからって、手近にあったものを投げつけるなんてさ。
もっとも、当てる気はなかったみたいだけどな。ぶつかった瞬間、しまった、って顔をしてたからよ。

「とはいえ、先輩がそう言っている以上、私が口出しするのもおかしな話ね」

 ほんの少し唇を尖らせながらも、黒猫は矛を収めてくれた。
一転して、その表情がつい見蕩れてしまうような、柔らかなほほえみに変わる。

「いずれにせよ、災難だったわね」
「はは。いつものことさ」

 朗らかに言う一方で、内心俺は安堵していた。
ケンカの原因について追求されたら、余計に話がややこしくなるところだからな。
だって、あいつが怒ったのは……。

「それにしても、ちょうどいい香りね」
「そうか? 自分ではよくわかんねえけど」

 二の腕辺りに鼻を寄せてみたものの、ミカンはそれほど自己主張していなかった。
そりゃそうだ。市販されている香水やシャンプーなんかは、匂いを保つ工夫がされている。
ただぶっかけられただけのミカン汁とは、比べるまでもないだろうよ。
こいつの場合、人一倍鼻が利くのかもしれない。そういえば、よく嗅がれているし。

 猫なのに犬みたい、か。しかし、いくらなんでも黒犬はねえよな。
妹さんたちが聞いたら、なんて言うだろうか。そうだな、あいつなら……。

『あははは、るり姉が犬? そっか、るり姉って犬みたいだったんだ。はっはーん、なるほどね。
それって、高坂くんがご主人様ってことだよね。つまり、毎日躾をしちゃうわけだ。
それで、るり姉は高坂くんに色々と懇願するんだね。
犬ってそういうことなんでしょ? うわあ、すごい。るり姉、どんなことされてるんだろ!』

 俺の脳内でもこれだけ縦横無尽にはっちゃけるとは、黒猫の妹恐るべし、だ。
会った回数は少ねえけど、初対面のときからすげえインパクトだったからな。
沙織・バジーナの初見時に勝るとも劣らないと言えば、あんたらにもわかってもらえるだろうか。

「なにを笑っているの?」
「いや、なんでもねえよ」

 やべえやべえ。思わず顔がにやけていたみたいだ。
さすがに、今なにを考えていたのか、口が裂けても言えねえぜ。

「ところで先輩」
「ん?」
「ベッドに座って頂戴」

 これまた唐突なお願いだったが、
最初からこいつに好きなほうを選ばせるつもりだったから特に異論はない。

「へ? 構わねえけど、なんで?」
「立ったままでは匂いを嗅ぎづらいからよ」

 示された理由に、俺は一瞬声を詰まらせた。

「は? おまえ、俺の匂いが好きなの?」
「莫迦。この雄は、藪から棒になにを言うのかしら。恥を知りなさい」
「だって、匂いを嗅ぎたいって」

 黒猫は顔を真っ赤にしてにらみつけてきた。

「黙りなさい。つべこべ言わず、あなたはベッドに座ればいいのよ」
「は、はい」

 勢いに飲まれて、大人しく従うことにする。
そうして、ベッドに腰掛けた俺へ次の指示が飛んできた。

「目を、閉じて」
「え?」

 驚く俺を見下ろしつつ、黒髪の後輩は斜に構えて腕組みをする。

「じろじろ見られたら、恥ずかしいでしょう」
「ああ、わかった」

 なにがしたいのかよくわからんが、とにかく目をつぶることにした。
それでも、不安はない。こいつが妙なイタズラをするなんざ考えられねえし、
どこかのマジキチみたくいきなり手錠をかけられるなんてこともないはずだからな。

 でも、見られて恥ずかしいようなことって、こいつはなにをしようってんだ。

「なあ、なにをやってんだ?」
「……もう少しで終わるわ。じっとしていて」

 声をかけられてあわてたのか、黒猫は普段よりやや早口に言ってくる。
そのまま目を閉じて待っていると、ぎし、とベッドが軋んで座っている右側がわずかに沈んだ。
後ろに回りこむつもりはないらしく、そこで体重移動がストップする。

 直後、あわや声を上げそうになった。
肌が直接触れ合っているわけではないものの、後輩の体が間近にあるのがわかる。
見つめられているのか。嗅がれているのか。
あるいは、隠し持っていたペンで落書きでもされるのか。

 互いを隔てる薄い空気の膜を通じて、彼女の体温が伝わってくる。
それでも律儀に言いつけを守る中、ぎし、と再びベッドが軋んだ。
次いで、なにかが頬をかすめたそのときである。

「きゃっ」

 悲鳴を耳にした俺は、反射的に瞼を開いた。
同時に、身構える間もなくバランスを崩した華奢な体が飛び込んでくる。
どうにか抱きとめるも、俺たちは布団カバーの上に転がっていた。
それでもベッドの上だったことが幸いして、どこもぶつけずに済んだようだった。
とっさに黒猫も支えられたし、言うことはない。

「おい、大丈夫か黒猫」

 真隣に伏せられたままの横顔に呼びかけると、くぐもった返事があった。

「平気よ」

 黒猫が顔を持ち上げて、黒髪の一端が鼻先をかすめ、甘い匂いが胸いっぱいに広がる。
まったき黒の瞳がこちらを向いて、抱き合っていた俺たちは、至近距離で見つめ合う形となった。

「……っ」

 息をのんだ音は、どちらが発したものだったのか。
薄っすらと上気させる後輩の目は、どこか潤んで見えた。
鼓動は激しさを増し、まともに呼吸ができなくなる。
着衣越しの熱が、視線が、触れる黒猫のすべてが熱く、愛しく感じられた。

 俺はほっそりとした肩を抱き寄せ、それに応えて彼女は瞼を下ろす。
朱唇に口付けようと、彼我の空間をゼロへと近づけていく。

 だが、俺の唇が黒猫のそれに重ねられることはなかった。
ノックの音がしたかと思うと、勢いよく扉が開いたからだ。

 そこに立っていたのは妹で、こちらを指差しながら目をひん剥いていた。

「な、な、な……」

 唖然としている俺たちよりも、態勢を立て直したのは桐乃が早かった。

「この変態! 信じらんない。あたしが家を出ている間に、いかがわしいことしようとしてんの?」
「違えよ! 見りゃわかんだろうが。俺たちがそういうことしているように見えるか?」
「見える。というか、そうとしか見えないんですケド!」

 指摘されて、自分たちの状態をはっきりと認識する。
確かに、ベッドの上で足を絡めあうようにして体を密着させている男女がいくら訴えたところで、
その気はないという言い分が通るわけがない。
実際、キスをしようとしてたんだしな。そんなこと、正直に言えるわけはないけど。

「先輩。ここは私に任せて頂戴」
「お、おう」

 俺がうなずくのを待って、黒猫はベッドに肘を突き顔を入り口へと向けた。

「あら。今頃なにをしに来たのかしら、蜜柑姫さん」

 毎度のことながら、こいつってスイッチが入ると完全にキャラが変わるのな。
それはいいとして、なんでいきなり火に油を注ぎに行っちゃうの? 仲裁するんじゃなかったのかよ。

「はあ? って、なんでアンタがそれを知ってるワケ!?」

 案の定、妹は眦と眉をきりきりと吊り上げた。
もちろんそれを見て物怖じする黒猫ではない。
こっちからじゃ顔は見えないが、きっと、妙に自信に満ちあふれた上から目線な笑みを浮かべてるんだろうな。

「あなたの悪行は、すべて預言書に記されているわ。私はその行いによってもたらされた穢れを祓っていたの」
「はぁ? アンタの匂いで上書きしようってワケ? ふざけんな!」

 客観的に聞いているとすごい言い合いだった。
本人たちはいたって真面目に、本気で言い合ってるんだろうけどさ、
いや、だからこそおかしいっつうか。

「ふざけてなどいないわ。それに、すでに匂いは移っている。
蜜柑姫は大人しく温州でもオレンジでも剥いていなさい」
「なにが蜜柑姫よ! あったまくるわねこのクソ猫!
あたしが来なかったら今もベッドの上でイチャイチャしちゃってたくせにさあ!」
「なっ……!」

 思わぬ反撃に黒猫が身をよじり、俺はカッと目を見開いた。
桐乃の台詞に反応したわけじゃない。この、ささやかながらもふわりとした感触は、その、胸だよな。

「それは、その、違うのよ。これはたまたま、偶然の事故で」
「偶然? はん」

 しどろもどろに答える後輩に、妹の表情に余裕が戻る。

「なに言ってんの。こいつがヘタレだから、待ちきれなくなって押し倒したんでしょ。この淫ら猫!」
「み、淫らですって? 莫迦、なにを言っているのかしら」
「うるさい! ベッドから降りろクソ猫! それはあたしのだっての!」

 ぐいぐいと押しつけられる双丘の感触に意識の大半を奪われていたせいか、
この後もしばらく続いた二人のやり取りを俺はほとんど覚えちゃいない。

 ただ、これだけは言える。まさかの俺得展開であった、と。

ver.1.00 11/3/6
ver.1.65 11/3/11

〜妹の友だちが俺をベッドに押し倒すわけがない・舞台裏〜

「ふむ。それで、ミカンを投げつけてしまったわけですな」

 あたしの話を聞き終えたぐるぐる眼鏡の親友は、
眉尻を少しだけ下げた、困ったようなほほえみを浮かべていた。

「だってさ。あいつ、せっかくあたしが、あたしから誘おうとしたのに」
「あいにく、先約があったのですな」
「……ふん。そういうこと」

 まったく、思い出しただけでむかつく。ホントむかつく。むかつくむかつくむかつく。

「黒いのが家に来るから、って話をしてきたときの、アイツの顔!
こーんな風に鼻の下伸ばしちゃってさあ。ばっかじゃないの」
「ヤハハ。きりりん氏、おせっかいかもしれませんが、ここはご自分の部屋ではでありませんぞ」

 人目をはばかることなく思いっきり上唇を引き下げたもんだから、沙織はあわてて止めに入った。
あたしとしても、さらしものになるつもりはないから、渋々ながらも従うことにする。

「一応確認いたしますが、きりりん氏との先約を蹴ったわけでは……」
「あったりまえじゃん。そんなことしたら即死刑。上訴は即時棄却だから」
「ハハハ、そうでしたか」

 すべてを理解していると言外に伝えるかのように、
テーブルの向かいでギリシャ文字のラストを飾る文字みたいなラインを描く口元を眺めながら、
あたしはむしゃくしゃする気持ちを目の前の、
氷が溶けきってすっかり薄くなってしまったカフェラテにぶつけた。
ストローを刺し、陸上で鍛えた肺活量をフルに使って一気に吸引する。

 もちろん、そんなことくらいで気持ちが晴れるはずはない。

「まあ、約束なんて早い者勝ちだってわかってるケド。わかってるんだケド」

 そのまま空になったグラスを見つめていると、沙織が控えめに呼びかけてきた。

「お気持ちはお察しいたしますが、きりりん氏。ひとつよろしいか?」
「なに」

 居住まいを正しながらの真摯な声を向けられて、あたしも仕方なくきちんと座り直す。
こういうところは、小さい頃からお父さんに厳しくしつけられた結果、なのだと思う。

「拙者の勘違いかもしれませぬゆえ、先に謝っておきますぞ。そのときは平にご容赦くだされ」
「うん。それで、なに?」

 いったいなにを言うつもりなんだろう。
こちらの胸中を慮ってか、ぐるぐる眼鏡の親友はふわりと頬をほころばせた。

「いや、きりりん氏は、実はそれほど腹を立てていないのでは、と思いましてな」
「……!」

 思いもよらない指摘だった。
目を見開くあたしの前で、沙織の言葉は続く。

「ハハ、驚かせてしまいましたかな。なに、ミカンの一件を話しているときの、
きりりん氏の表情が決め手でござるよ」
「あたしの表情?」
「ええ。ですから、怒ったことにして後ろめたさや気まずさをなかったことにしているのでは、と」

 ここで、とぼけて突っぱねることもできた。でも、なんだかそれは癪に思えて、
あたしは降参のポーズとして小さく肩をすくめると、背もたれに全体重を預けた。

「最初は本気で投げるつもりじゃなかったんだけど、つい、手が滑っちゃって」

 あいつもびっくりしただろうけど、あたしだって驚いた。
あのバカはそれを食べちゃうし。まじで意味わかんない。あたしの食べさしだっつーの。

「それなら今からでも遅くはないと思いますぞ、きりりん氏。家に戻り、京介氏に謝るのでござる」
「はあ? 寝言は寝てから言ってよね。どうしてあたしがあいつに謝んなくちゃいけないワケ?」
「その答えを一番よく知ってらっしゃるのは、きりりん氏ではありませぬかな、ニンニン」

 結局あたしは、いくらにらみつけてもにこやかな表情を崩さない世話焼き魔の言うとおりにしたのだった。



 甘い黒猫×京介SSになるはずが、すっかりコメディ展開です。
とはいえ、甘いだけよりもこのほうが俺妹らしいのかもしれませんね。
さて、次回は前々からキャラ単体では一番好きと公言してきた沙織のお話を書きたいと思います。
沙織・バジーナなのか、それとも沙織のお話か。
まだ思いついていないのでどちらになるかはわかりませんが、お楽しみいただけましたら幸いです。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。



俺の妹がこんなに可愛いわけがない!?小説お品書き
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