驚きがあった。怒りもある。だが、最初に少女を襲ったのは驚きの感情であった。

 彼女が同級生と自分の体に大きな違いがあることに気づいたのは、比較的早かった。
男子のみならず、同性からの視線を意識するようになったのは、何年生のときであったか覚えていない。
それがほぼ例外なく体のある部分にのみ注がれていると知ったのは、もう少し後になってからであった。

 公共機関を利用していれば被害に合うことがあると、噂には聞いていた。
中学生とは思えない豊かな膨らみと大人しそうな外観という二点セットは、
痴漢という下劣な犯罪者にとって実行のハードルを下げさせる要因となり得る。
これらを頭では理解しているものの、実際にそうした場面に遭遇するばかりか、
自身がその手の対象になることなど、想像したことさえなかった。

 とはいえ、巴マミは見た目どおりの大人しいお嬢さまではない。
日夜、魔法少女として見滝原市に蔓延る異形の輩を一手に引き受ける戦士が、
文句の一つすら言えずに泣き寝入りをするなど、あり得ない話であった。

 そっぽを向いたまま、手のひらでしっかりと双丘をつかんでいるスーツ姿の男は、
こちらが黙っているのをいいことに、次第に動きを大胆なものに変えつつある。

 そのとき、巻き髪の少女が目を見張る。
左手の薬指に光る指輪は、妻帯者であることを示していた。
呆れを通り越して憤りを覚えた彼女は、
反射的に平手を食らわせようとしてすんでのところで思いとどまる。
混み合う車内でそんなことをすれば、他の客にも迷惑がかかってしまう。

 強めに手を打ち払うべきか。手首を捻り上げて、周囲に知らしめるべきであろうか。
いずれの方法も、ろくに身動きができない状況にあっては難しい。

 マミは不快さから目つきを険しくさせながら、覚悟を決めた。
なにも、この手合いに遠慮する必要はない。穏便に済ませれば、高確率で次の犠牲者が出る。

 しかし、彼女が動くより先に、事態が動いた。
巻き髪の少女のかたわらに立っていた若者が、
卑劣な男の行為に気づいたのか、あるいはついに見かねて割って入ろうと、
唯一自由な左手で横合いから介入を計る。

「おっさん、いい加減に……」

 だが、彼もまた、自らの意思を完遂することはできなかった。
いつの間にか、目と鼻の先に黒髪の少女が立っていたのである。

「止めなさい」

 小柄な黒髪の少女が放つ凛とした声は、小さいながらもはっきりと邪な者の耳に届いたらしく、
ぎょっとした顔で斜め下方に目を移した。

「なんだ君は」
「シラを切るつもりなら止めておくことを勧めるわ」

 冷え冷えとした視線を浴びながらも、男は幾分余裕を取り戻した表情をみせる。
相手が取るに足らない女学生と踏んでのことであろう。

「失敬な。何を言っているのかわからんな」
「だとすればあなたは病院に行くべきね。直前の、自身の行動を記憶できないのだから」

 当事者を除けば、周囲の人間は大半が無関心を装っている。
厄介ごとに巻き込まれたくないと思う者がいれば、
どちらに味方すべきなのかを判断しようと聞き耳を立てている者もいた。

「失礼じゃないか、君」

 その空気を察するだけの余裕を持たない人間が、あわてて非難の声を上げる。

「さっきから、いったい何だ。私が何をしたというのかね」
「どの面を下げてそんなことを言っているのかしら。
私は、礼節を守るべき相手には、しかるべき所作で応じるわ」

 大人を相手に一歩も引かない黒髪の少女の言葉に、数人の乗客が顔を見合わせた。
双方の態度を見れば、比べるまでもなくどちらに非があるのか一目瞭然である。
これは、駅員を呼ぶべきではないのか。そういった空気が辺りに漂う。

「それとも、事を荒立てて公の場で裁かれることを望んでいるのかしら」
「今度は脅迫か。どこに証拠があるというんだ」
「どうしてそれをあなたに言う必要があるのか、後学のためにぜひ教えてもらいたいものね」

 卑劣な痴漢男はこの切り返しに口ごもり、直後、電車が減速し始めて、程なく停車した。

「不愉快だ。まったくもって不愉快だ。とにかく、私はこれで失礼する」

 明らかに分が悪いと悟ったかこれ幸いと逃げを打つ男を冷ややかな眼差しで見送ってから、
犯罪者を撃退した少女がゆっくりと背後の被害者へと振り返る。

「……これでよかったかしら」
「ありがとう。おかげで助かったわ」

 つい今しがたの出来事などなかったかのように、マミは心からの笑顔をみせた。
一人では、こうも手際よく事を運ぶことができなかったであろう。

「私は巴マミ。あなたの名前を教えてくださらない? 勇気ある黒髪の天使さん」

 恥ずかしげもなく使用されたその表現は、
発言者にとって格別の違和感はなかったとみえて、自然体のままであった。
むしろ、指摘されてもすぐには気がつかないのかもしれない。

「私はほむら。暁美ほむら」

 黒髪の天使という代名詞に心なし頬を桜色に染めながら、ほむらは微かに口もとを緩めた。


 事件の後にメールアドレスを交換したほむらとマミは、度々顔を合わせるようになっていた。
ファーストフードでのお茶会は、程なく互いの部屋の行き来へと変わり、
先輩と後輩という垣根を越えた付き合に発展するまでそう時間はかからなかったのである。

 そんなある日のこと、ほむらはマミが男と並んで歩いているのを見かけた。
相手が件の痴漢事件において、助けに入ろうとしていた人物であるのを確認した瞬間、
彼女は目の前が闇に覆われたかのような衝撃を受けた。
二人が出会うことのないよう努めたつもりであったが、そうした動きが水泡に帰したのである。

 時間遡行者たる黒髪の魔法少女は、簡単には諦めなかった。

「あの男は止めておいたほうが賢明よ」
「何を言い出すかと思えば。余計なお世話よ、ほむら」

 しかし、幾ら説得したところでマミの気持ちは変わらず、
頑なに想い人との関係を壊すことなどできないと言われた。

「そういうこと。なるほど、よくわかった」
「よくわかった、とは」
「要するに、あなたも彼のことが好きなんでしょう? だから私たちの仲を裂こうと」

 そればかりか、長いとはいえない期間のうちに育まれた友情すら、疑われてしまった。

「図星だったわけ? ねえ、ほむら」
「もう一度言って」

 ほむらは短くそう言った。
真実を知って錯乱し、杏子を殺した者は、いくらやり直したところで救いようがなかったのか。

「は?」
「だから、今言ったことをもう一度言って」

 マミは、わけがわからないままに後輩の言に従った。

「あなたも彼が好き」
「違う。その後」
「あなたが私たちの仲を裂こうとしてる、って」
「……そう」

 時を操る魔法少女は、すべての結果を知っている。

「結局、どう足掻いたところで私はあなたを助けられない、ということかしら」

 マミの末路を、知っている。

「ちょっとほむら。どういう意味? ねえ、ほむら!」

 当初痴漢男を利用して近づこうとした有名な女たらしが狙っていたのは、巴マミであった。
その手練手管によって弄ばれ、貢がされて、最後には手ひどく捨てられた。
絶望した彼女は魔女化し、災厄を撒き散らす存在となった。

 本能のままに世を呪う、魔法少女に狩られる存在となってしまった。

「……私は警告したはずよ、巴マミ」

 ほむらの瞳に映る巨体は、悲しみの色に彩られているように見えた。

ver.1.00 12/3/4

舞台裏は後日公開いたします。


 マミを絡めた短編ほむSSです。
ほむらとの組み合わせでは、救いのない話しか思いつきませんでした。すみません。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。



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