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「ここでいい?」
振り向いた桐生の表情は底抜けに明るいものだった。
電撃使いの少女は邪気のないその様に少し見とれてしまい、あわてて首を縦に振る。
ここは騒ぎがあったところから五分とかからない距離にある雑居ビルの屋上で、
塗装が剥げすっかり立てつけの悪くなった扉を抜けると、寂寥感すら覚える光景が広がっていた。
床を覆うコンクリートは至る所がひび割れており、痛みきっている。
遠目にも錆が浮いて見える柵は体重を預けた途端に倒れてしまいそうで、
中央部分には誰が持ち込んだのか高さ七〇センチはある石造りの台座が置かれていた。
美琴が寮を出た時には天頂近くにあった陽は随分と傾いていたものの、
遮るものがないせいか降り注ぐ熱量と紫外線は幾分弱まった程度で、
じっとしているとじりじりと肌を焼かれる音が聞こえてきそうだった。
身につけているのが肌を覆う面積の狭い、薄手の白いスクールポロシャツと
濃紺のショートパンツであるため、そんな風に感じられるのかもしれない。
「じゃ、さっそく始めようかお姉ちゃん」
迷いのない宣言は、熱された空気の中でじわりと解けた。
「それはいいけど、どんな勝負をするわけ?」
先ほど少し回り道をして立ち寄った売店で買い求めた
コップとペットボトルに入った水を取り出す桐生に、常盤台のエースはわずかに頭部を傾けた。
この場所で、できることなどたかだか知れている。
前もって準備したものをどう使うのか、まったく想像がつかない。
そこに、次の一語が加えられる。
「グラスアンドコイン」
「グラスアンドコイン?」
美琴は思わずおうむ返しにたずねていた。雑学の収集はそれなりに行っているつもりだったが、
聞き覚えのないものだったのだ。ごく一般的な単語の羅列からどのようなゲームであるのか
想像するのは難しく、また、高位の精神感応系能力者ではないため、まったく見当がつかない。
これは、彼女が努力を怠っているのではない。学園都市の能力者たちが持つ力は一種類のみである。
何故なら超電磁砲や空間移動といった能力は発現の根幹に係る個、
すなわち自分だけの現実の表れであるため、多重能力は存在し得ない。
「うん。わたしはそう呼んでるよ」
黒髪の少女は不思議そうな顔をみせる常盤台のエースに向かってニヤリと笑い、語を継いだ。
「ルールは簡単。この中に順番でコインを入れて、先に水をあふれさせちゃった方が負け」
シンプルだからこそ、決着はすぐにつく。
今回のような、ちょっとした賭けを行うのにはちょうどいいのかもしれない。
ただし、敗者が相手の命令に従わなければならないとするルールは、
内容によってはちょっとしたものでなくなってしまうのだが。
「おあつらえ向きに机が置いてあることだし、あれを台にしようよ」
電撃使いの少女は戸惑いを隠しきれず、曖昧にうなずくことしかできずにいる。
桐生は同意を求めるような語を口にしながら、実際には意思の確認を行っているわけではなかった。
それは、一方的な通告でしかない。
「念のため、細工がないかチェックしてくれる?
わたしが事前になにかしているかもしれないでしょ」
「うん、わかった」
すっかり相手のペースに飲まれていた美琴は、
具体的な指示に応じて手渡されたグラスと石の置き台をためつすがめつ調べ始めた。
この辺りの生真面目さは、彼女が優等生たる所以なのかもしれない。
「ねえお姉ちゃん。たった一回で勝負を決めちゃうとつまらないと思わない? 三回勝負にする?」
「そうね」
この時、第三位の少女はツインテールの後輩と交わした約束のことを思い出していた。
なるべく出かけないようにすると言った以上、長時間外をうろつくわけにもいかない。
「一発勝負でいいわ。その方がわかりやすいし」
「へえ。さすがは超電磁砲のお姉ちゃんだね。すごい自信」
桐生はヒュウ、と口笛を吹いて、手のひらを机の方へと向けた。
「お姉ちゃんはそっち側。それでいい?」
「いいわよ」
美琴とて、勝負をするからには負けてやるつもりなどない。
このゲームならば、どちらに立とうと優劣がつかないと踏んで、承諾したのである。
「特に問題はない感じ?」
「ええ。細工してあるようには見えないわ」
買ってきたばかりのグラスはありふれた市販のものであり、
石造りの机には目立った傾きや傷は見当たらない。
一応、何らかの装置が隠されていないかどうかもチェック済みで、問題はなさそうだった。
「それじゃ、水を入れるね」
小さな手によってペットボトルが開封され、グラスへと水が注がれていく。
それを見て、電撃使いの少女は待ったをかけた。
「ちょっと、そんなに入れたらすぐにあふれるんじゃないの?」
並々と注がれたこの状態では、たった一枚のコインで水がこぼれてもおかしくはない。
だが、桐生は小さくかぶりを振って白い歯を覗かた。
「そうでもないよ。ほら、表面張力って知ってるでしょ? 一杯になっているように見えるけど、
結構入るんだよね。このサイズなら、あと十枚以上は入るんじゃないかな」
「そんなに?」
美琴が驚くのも無理はない。
液体の表面に働く内部に引っ張り込もうとする力があることは知っていても、
スキルアウトの少女が適当なことを言っているようにしか思えなかったのだ。
半信半疑どころか二信八疑のまなざしを受けながら、桐生はひょいと肩をすくめてみせた。
「そうねえ。信じられないなら、先にお手本を見せてあげる」
宣言するが早いか、腰を落としてグラスにコインを近づけていく。
水面へと達したところでつまんでいた指が離され、ゆるゆると底に向かって落ちていった。
「ね。いけそうでしょ?」
水は多少揺らいだのみで、それ以上の変化は起きない。
確かに、この分ならば数枚入れたところで問題なさそうだった。
しかし、である。
「じゃ、お姉ちゃんの番」
常盤台のエースはごくりと生唾を飲んで、コップを見下ろした。
まだ大丈夫であることも、平常心と集中力が求められるゲームであることも理解している。
問題は、初挑戦の人間が同じことをやってのけられるのかという一点にあった。
「なんだったら、このゲームは練習ってことにしてもいいけど」
桐生の声に嫌味の響きはない。
情けをかけようというのではなく、あっさりと勝負がついてはつまらないと考えているのだろう。
勝者の余裕といえばいいのだろうか。自身の勝ちが揺らがないことを、確信しているようだった。
しかし、この程度で気持ちが折れる美琴ではない。
むしろ、鼻を明かしてやりたいという気持ちになっていた。
学園第三位であるという立場は、得意分野であろうがあるまいが、
簡単に負けを認めることなど許してはくれないのだ。
「お気遣いはありがたいけれど、誰に向かって言ってるかわかってる? あたしは御坂美琴よ」
鼻息荒く言いきって、電撃使いの少女は不敵に笑った。
今ここで考えるべきなのは、やれるかどうかではない。どうすれば成功するか、だ。
いくら余裕があると言っても、放り投げるようにしては水があふれてしまうのは明白だった。
まず水面にコインの一端を触れさせて、波が立たないようにゆっくりと中に入れる。
相手はベテランであり、一枚ずつ入れていったのでは十中八九、負けてしまうだろう。
これは、心理戦でもある。動揺を誘うことさえできれば、勝負はつく。
震える手で入れたコインは、表面張力が生む均衡を破るはずだ。
精神力のせめぎ合いとなれば、いくらか不利を埋められるに違いない。
そのためにはここでたった一枚を手にするわけにはいかなかった。
「行くわ」
美琴は両手で頬を叩いて気合を入れると、二枚のコインをつかむ。
それだけで、戦えるという気になる。使い慣れたゲームセンターのメダルと同規格であるせいか、
ひやりとした金属の触感が研ぎ澄まされつつある心をより確かなものにする一助となっているのだ。
あとは、先程目にしたとおりのことを、実行するのみだった。
「ふう」
はたして、コインが無事にグラスの底へと到達する。桐生は惜しみない拍手を送った。
「すごいすごい。一気に二枚も入れるなんて、さすがは超電磁砲のお姉ちゃん。そこにしびれる憧れる!」
一人ではしゃぎ回る年下の少女に、
常盤台のエースはどう反応していいか迷い、照れくさそうに鼻をかく。
幾つになっても、褒められて嫌な気分になる人間はそういない。
だがそうした気分は一瞬にしてご破算となった。
「じゃあ、わたしは一気に五枚、やっちゃおうかな」
「え……?」
何の気なしに言った桐生の台詞に一切の気負いは感じられず、冗談を言っている風でもない。
そして、驚く美琴の目の前で、五枚のコインはあっさりとグラスの中へと投じられた。
水面は大きく波打ったが、やがて元の水平状態へと戻る。賭けは成功だった。
「危ないところだったけど、なんとかセーフだったね」
大して緊張した様子もなくつぶやくと、スキルアウトの少女は真上に組んだ腕を持ち上げ伸びをする。
常盤台のエースは、我知らず奥歯を噛み締めた。
「お姉ちゃんにはちょっと厳しすぎる展開かな? わたしでも、次は百発百中とは行かないと思うよ」
「そうみたいね」
素人目にもゲーム開始直後とは水の盛り上がりようが違う。
グラスに残された余裕は、もはやほとんど残っていないだろう。
「どうするの? 降参?」
桐生は悪戯っぽく目を細めつつ、くつくつと喉の奥を震わせた。
「どうしよっかな。お姉ちゃんのストリップショーも悪くないし、
今からその辺りのホテルに入ってもいいし」
「どっちみち聞き捨てならないわね」
「そう? わたしとしては妙案だと思うんだけど」
軽口を叩き続ける年下の少女に、美琴はホテルに行って何をするつもりよ、
とため息混じりに胸の内で独語する。白井を相手にしているようで、どうにも調子が狂ってしまう。
「で、どうするの?」
「決まっているわ。勝負をする前から白旗を上げるほど、あたしは殊勝にできてない」
第三位の席次は、血のにじむような努力の結果である。
その過程で苦杯を舐めてきた能力者たちのためにも、御坂美琴は立ち止まってなどいられない。
何より、試しもせずに諦めるくらいなら、やってみて失敗した方が断然いいし、諦めもつく。
勝負は時の運。やるだけのことをやった上での敗北ならば、仕方がない。
悔しさを糧に、前へと進むのみである。
「へえ、ここでまだ二枚にチャレンジするんだ」
「言ったでしょう。あたしは勝つ気よ」
「おもしろい人だね、お姉ちゃんは。ますます興味が出てきちゃった」
桐生の表情が変わった。これまではあくまでもお遊びだったということか。
いずれにしても、失敗した時点で美琴の負けは確定する。
「よし」
気合に満ちた声と、頬を打つ乾いた音が辺りに響く。やると決めたからには集中、である。
常盤台のエースは目と鼻の先に置かれたグラスに意識のすべてを向けた。
まずは二枚のコインを慎重に着水させる。次に一部を水中へと沈めて、表面の様子を伺う。
思ったとおり、ギリギリ受け入れられそうな雰囲気だ。
ゆっくりと、静かに作業は続けられた。緊張はしているが、手に震えはない。
機械のような精密さで、円形の金属がグラスの中へと受け入れられていく。
桐生は固唾をのんでこの挑戦を見つめている。
だが、あとは指を離すだけという段になって美琴は致命的な問題に気づいた。
どれだけそっとやったところで、表面が揺らぐのだけは防げない。
小さくすることはできても、ゼロにはできないのだ。
おそらく、手を離れた直後に水はあふれてしまうだろう。
「あ……」
動揺が、重なり合ったコインを滑らせた。水面は盛り上がり、スキルアウトの少女が目を見張る。
「……!」
同時に、第三位の少女の前髪がバチッと火花を散らした。
同時に、縁へと広がりかけていた波が途中で消失する。
とっさに電子を放つことで、分子レベルで水の移動を阻害したのである。
「ウソ」
予想外の展開に、桐生は唖然としていた。
彼女の見立てでは、美琴の第二投は失敗に終わるはずだったのだ。
「まさか、成功するなんて」
スキルアウトの少女はグラスを見つめながら台座の周囲を回り始めた。
その顔色は、つい今し方までと違って、優れていない。
一方の、常盤台のエースの表情もまた明るいものではなかった。
ルールに規定されていなかったとはいえ、能力を行使してしまったため、
胸を張っていいのかどうかにわかに判断しかねる。
だからと言って、いつまでも待つわけにはいかなかった。
桐生の意図はわからず仕舞いだったが、ここは適当にお茶を濁し、
うやむやのまま勝敗を決めずに終わらせてしまうのが吉だろう。
そのためには、まず話を進めなければならない。
「まさか、水が蒸発して減るまで粘る気?」
美琴が冗談めいた言い方をしたのは、せめてもの気遣いだった。
しかし、どうしたことか。スキルアウトの少女は口の端をぐっと吊り上げてこう言った。
「それこそまさか、だよ」
自信に満ちあふれた桐生の言葉は電撃使いの少女に届いたが、返事ができなかった。
「お姉ちゃん、勝った、と思ってるでしょ」
否定する要素はない。グラスには、一枚どころか少しコインを浸けただけでもあふれてしまうだろう。
そのはずだった。
「ところがぎっちょん、入っちゃうんだな、これが」
だが、満面を笑みに変えたスキルアウトの少女は本当に一枚、入れてしまったのである。
『負けた方は勝った方の言うことを一つ聞くの。どう?』
ゆっくりとこちらに向けられたまなざしを見つめ返しながら、
美琴の目にはそう言った桐生の姿が映っていた。
To be conitnued...
ver.1.00 11/4/30
ver.1.50 11/5/4
〜とある乙女の恋姫無双・舞台裏〜
『シャワーも浴びずに服を脱いで、臭ったりしたらイヤじゃないですか』
沈黙が支配する室内で、二人の少女たちは脳内で同じ言葉を繰り返していた。
息が詰まるような空気に耐えられなくなったのか、
頭部を盛大に花で飾った風紀委員の少女がつぶやく。
「聞こえているなら聞こえているって、言ってください」
鼻の上を赤く染めた初春は、ぎゅっと瞼を閉じてうつむいた。
聞かせるつもりなどなかった内心を口に出してしまうなど、とんだ失態である。
だが、こぼれた水は元には戻らない。後悔など、なんの役にも立たないのだ。
「ええと、その、あの……ごめん。はは」
一方の佐天とて、平然としているわけではない。
思いがけない形での告白に、先程から早まったままの鼓動は一向に収まる様子はなかった。
今の言葉にしても、笑いたかったわけではない。
ただ、どうすればいいかわからず、笑ってしまったのである。
とはいえ、いつまでも地面を転がりたくなるような気持ちのまま、じっとしてなどいられない。
他の誰でもない、自信のために手を打つ必要があった。
「ほら、ドンマイだよ初春! あたしなら大丈夫。
初春が汗だくでも、昨日お風呂に入っていなくても、抱きしめられるから」
「な……」
顔全体を紅潮させた親友が弾かれたように正面を見やって絶句するのを眺めていた白梅の少女は、
そんなことくらいであたしたちの友情は揺らがない、と言わんばかりに、
ぐっと親指を立てるや穏やかなほほえみで付け加える。
「それに、あれだよ。初春は元々いい匂いがするんだからさ、ちょっとくらい臭ったくらいで……」
しかし、感動のシーンは生まれなかった。そればかりか、台詞は中途で遮られたのである。
「佐天さん、変なこと言わないでください!」
「え? あれ?」
想像していたものとはまったく異なる反応に、佐天はぱちくりと瞬きをした。
瞳を潤ませる親友と手を取り合ってうなずき合う、そういう展開を迎えるはずがどうしたことか。
「お風呂くらい毎日入ってます! それに、それに、私が」
勢いで語を継いでいた初春は、はっとして口を閉ざしてしまった。
白梅の少女は、混乱しながらもおずおずと続きを促す。
「……私が、何?」
「それは」
熟れたリンゴのようになりながら、風紀委員の少女は力を入れた下唇を震わせて、言った。
「私がいい匂いだとか、適当なこと言わないでください。
香水だってつけていませんし、別に、普通です」
「そんなことないよ」
「そうですよね……って、え?」
驚愕に彩られた初春の顔を見つめ返す佐天は、
照れくさそうに目を細めながら再度サムズアップした。
「抱きしめた時とか一緒に寝た時にいつも嗅いでるけど、いい匂いしているもん。
だから、自信持っていいと思う。初春はいい匂いがする女の子だ!」
「えー!?」
大きくのけぞった拍子に風紀委員の少女はバランスを崩し、
手を突いた先にペットボトルが転がっていたため、床へと身を投げ出すように倒れ込む。
白梅の少女はとっさに親友へと飛びつき、頭を抱えるように抱きしめた。
直後に肘や膝を強かに打ちつけてしまったが、
初春を守るという目的は無事に果たされたのである。
「大丈夫?」
「佐天さんのおかげでなんとか平気みたいです。
それより、佐天さんこそ大丈夫ですか? どこか、打ったんじゃ」
「平気へいき。名誉の負傷! って、痛くないから気にしないで」
矛盾をはらみつつも気遣いに満ちた親友の台詞に、初春は弱々しくほほえんだ。
「何をやってるんでしょうね、私」
「でも、いいんじゃない? 怪我はなかったんだし」
白梅の少女は身を起こすと、手を差し出して快活に笑む。
それに応じて、風紀委員の少女は口元を弓にする。
期せずして、佐天涙子が望んだ空気が二人を包んでいた。
しかし、だ。
「まあ、こんな時に言うのもなんだけど」
「なんですか?」
「いや、初春はやっぱりいい匂いだな、と」
頬をかきながらつぶやく佐天に、初春はおかしみをこらえきれなくなって吹き出すのだった。
美琴SS第二弾です。美琴が色々されてしまうお話はネタばらしと共に後編へと持越しです。
黒子も書きたいのですが、このシリーズを終えた後に登場です。
それにしても、超電磁砲の第二期、早くアナウンスされないでしょうか。
あるものと、信じているのですけれど。
それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。
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