「はあ、はあ、はあっ……」
ひと気のない路地に息せき切って駆け込んだ少女は、両膝に手を突いてぎゅっと目を閉じた。
幾筋もの汗が頬を伝い、こぼれ落ちた雫がぽたぽたとアスファルトを濡らしていく。
体育の授業でも経験のない十数Kmもの距離をひたすら走ったのだから、汗みずくになるのも無理はなかった。
日頃、運動らしい運動もしていない女学生が、ペース配分を考えずにいつまでも駆け続けられるものではない。
むしろ、倒れずにここまで走ってこられた事が奇跡に近いと言っても過言ではいだろう。
佐天涙子は呼気の乱れが収まらないままに顔を上げて辺りを見回し、
(ここは、どこ?)
見覚えのない風景に眉を不安げに寄せる。
『学園都市』に住み始めてから数ヶ月になるが、基本的に表通りばかりを歩くため、一度メインストリートから外れてしまうと知っている道は存外少なく、普段、いかに同じ道ばかりを通っていることを再認識させられた。
それでも、平時であれば少々道に迷ったところで何も恐れることはない。
ただ、来た道を戻るか道行く人にたずねれば良い。
しかし右も左もわからないまま、捕まることを恐れて火事場の馬鹿力を発揮しがむしゃらに足を動かしてきた彼女に道順を覚えておけと言うのは少々酷な話であり、また、運悪く助けを求めるべき通行人の姿がない以上、自力で道を探るより他はなかった。
追っ手の気配がない事だけが、せめてもの救いだろうか。
(どうして、どうしてこんな事になっちゃったんだろう)
佐天は恐るおそる通りの様子をうかがいつつ、深いため息をついた。
いつもなら愛らしく映るだろうセミロングの黒髪を彩る白梅の花を模した髪飾りは、胸中の不安が伝染したかのようにどこか儚げな印象を受ける。
(とにかく、逃げなくちゃ)
少女はきつく唇を噛み締めると、疲労から上体を垂直に維持する事を放棄しようとする意識を振り払い、意を決し歩き始めた。
もっともそれは、遮蔽物のない通路にいつまでもじっとしていては見つかってしまうと判断したと言うよりも、体を動かすことで少しでも気を紛らわせようと考えたのかもしれない。
いずれにせよ、現状を鑑みるにこの場を離れることはおそらく最良の策なのだろう。
唯一事態を打開でき得る持ち札、携帯電話も圏外では無用の長物に過ぎず、せめて電波を受信できるところまで移動しなければならないのだから。
しかし、少女が手元の小さな画面から顔を上げた瞬間、そうした目論みは端から費えていたのだと知った。
いつからそこに居たのか、行く手で一人の男が半身だけ姿を見せつつ無表情のままこちらを凝視していたのである。
「ひっ」
佐天はこれ以上ないほど目を見開き、声にならないうめきを漏らして後ずさりした。
真っ白になった頭の中を恐怖の二文字が埋めつくし、四肢を強張らせる。
そして、
「あは、見ぃつけた」
怯えから歯の根が合わなくなった佐天涙子の観察者がにたりと口の端を歪めると同時、絹を裂くような甲高い悲鳴が周囲に響き渡った。
しばし時はさかのぼる。
「お姉様とデート、デイト、デエト、ですの♪」
灰色のプリーツスカートにベージュの半袖ブラウスにサマーセーターという格好の、一見何の変哲もない中学生くらいの女の子が二人、公園に備え付けられた木陰のベンチに腰掛けていた。
「楽しそうね、黒子」
向かって右側に座る茶色の髪を肩まで伸ばした少女は、二三〇万の人口を誇る学園都市でわずか七名しかいないレベル5の電撃使い御坂美琴で、
「当然ですの、お姉様。視界の効かない雪山にコンパスを持たずに入れば迷うくらい、当然ですわ。いいですか、お姉様。今日は待ちに待ったお姉様とのデートですのよ? 本当に、七夕の日にのみ会う事が許される織姫と彦星のごとく心の底から待ちに待ったデートですの。万が一、いえ、億に一つもあり得ませんが、もし楽しくないなんて考えが頭に浮かぶ事があれば、その時点でそんなもったいない事を考えるわたくしは万死に値しますわ」
ルームメイトにして先輩たる常盤台のエースに熱いまなざしを向けながら、滔々と自らの想いを語るツインテールの少女が白井黒子だ。
「ところでお姉様、本当に捨ててしまってよろしいんですの?」
「だから食べないってば。というか地面に落としちゃったものを食べたりしないわよ普通」
後輩が両手でしっかと握っているクレープを一瞥し、美琴はひょいと軽く肩をすくめた。
五分ほど前に車両を利用するタイプの店で買ったのだが、今しがた走り回っていた小さな子どもとぶつかった際、倒れそうになったその子をかばうために放り出してしまったのである。
おかげで幼児は怪我一つ負うことなく済み、まだ一口しか食べていないクレープは敷き詰められたアスファルトとの接吻を余儀なくされたのだった。
「では、ゴミ箱行きですのね」
「そうなるわね、もったいないけど」
「つまり、このクレープはお姉様の所有物ではなくなった、と」
「引っかかる言い方ね」
「気のせいですわお姉様」
先輩の言質を取るや、白井は金塊を背負った丸腰の商人を目にした追いはぎのように、思いきり口元を緩めてにんまりと笑う。
何を考えているのかは知らないが、どう見てもよからぬことを企む者にしか見えない顔つきに、
「ねえ、黒子。念のため聞くけど、それをどうするつもり?」
怪訝そうな表情になって美琴はたずねた。
確かに所有権は放棄したのだが、単にゴミとして扱うつもりならそのまま放置しておけば良い。
補足しておくと、学園都市内に限って言えば、一定の条件下ならばポイ捨てはマナー違反にならない。
そこら中をうろつく自動機械が落ちているゴミを回収してまわるため、明らかに長時間放置される事が予見される場合ならばともかく、すぐ側まで来ている時はそのまま任せてしまえばいいのである。
今も、わざわざ白井が拾い上げていなければすでに片付けられていたはずだった。
しかし、ツインテールの少女は幸せそうに目を弓にして、
「はい。頂こうと思いまして」
「へ? 頂くってそれを?」
先輩が発した再度の質問にさも当然といった風にこくりとうなずくと、
「まさか、いくらわたくしでも土がついたところまで食べたりはしませんわ。無事だった部分を、せっかくですので少し、ほんの少し味見させて頂こうかと」
手にしたクレープをくるりと反転させて、美琴によってかじられた側を示す。
「わざわざ落としちゃったものを食べようとしなくても……。まあ、アンタが気にしないって言うのなら無理に止めないけど」
「何を仰いますの、お姉様。丸ごと捨ててしまってはもったいないですわ。それではエコ精神に欠けるというもの。風紀委員として看過するわけには参りませんの」
きらきらとまばゆいばかりに瞳を輝かせつつ白井は殊更真顔で言ってきた。
なるほど、一応理に適っている。
だが、二人は出会って一日二日の仲ではない。
就寝時間を含めれば毎日、一日の半分近くを共に過ごしているのだ。
どれほど巧妙に誤魔化したところで、注意すれば笑顔の下に隠された感情を簡単には見逃さない。
「もう一度聞くわ。何をするつもりなのか、白状なさい」
「まあまあ、お姉様ったら白状だなんて人聞きが悪い」
ツインテールの風紀委員は、同じ問いを重ねる先輩の意図を正確に把握し、
「何も悪さをしようというのではありませんのよ? わたくしはただ、お姉様が分泌された体液を積極的に摂取しようと思っただけで」
一転して堂々と本音をさらけ出す。
世間一般で言うところの開き直りである。
「いけませんの?」
「何を気持ちの悪いこと言ってんのアンタは。まったく、いけませんのじゃないわよ」
電撃使いの少女は生々しい単語の数々につい顔を赤らめてしまった事を取り繕うかのように、ぐっと眉根を寄せて怒気を含んだ顔で後輩をにらみつけた。
しかし白井はまったく悪びれることなくしれっと小首を傾げるのみだ。
「ですが、お姉様はこれを捨てるおつもりだったのでは?」
「そうね」
吐き捨てるような言い草ながらも返ってきた肯定の語にツインテールの少女は勢い込んで食いつくが、
「でしたら何も問題は」
「あるわ!」
美琴は皆まで言わせずダン、とベンチに手のひらを叩きつけた。
「だからってそんな用途に使っていいと誰が言った!」
激しい感情のうねりに呼応するかのように、体の動きにあわせて前髪が揺らめくたび触れ合わせた電極のようにバチバチと火花を上げる。
経験上、見せ掛けでこうはならない事を知るツインテールの少女は、
(ここいらが潮時ですわね)
相当頭に血が上っているようですし、と内心密かに付け加えて、都合よく近づいてきた自動機械の方へ手にしたクレープを放り投げた。
「え?」
予想もしなかった突然の展開に、美琴はあっけに取られてぱちぱちと瞬きをする。
その隣で白井は物悲しげにクレープが吸い込み口に飲み込まれていくのを見ながら、
「拾い主には一割バックが世の習いですのに、お姉様は黒子を邪険に扱いますのね」
ぽつりとつぶやいた。
この発言は思った以上の効果を生み、
「それは……いや、そういうわけじゃ」
意表をつかれたせいもあるが、元来人がいい美琴は後輩の沈んだ様子に罪悪感を覚えたらしく申し訳なさそうな表情をみせた。
しかし、である。
この時風紀委員の少女は表情筋を物憂げな顔つきのまま維持することに傾注していた。
そうしなければ、口元はまったき三日月の形を描いていたに違いない。
もっとも、実際のところは押さえが効かず顔全体が締まりを失っていたのだが、幸いにも美琴の目線は遠ざかっていく自動機械に向けられている。
(わたくしにそういう趣味はないと思っていましたが、こういうお姉様の姿もゾクゾクしてしまいますわ。うふふふふ……と、これは)
その時、白井黒子はある事に気づいて脳内の高笑いを中断させる。
棚からぼた餅、とはまさにこの事か。
「あの、お姉様」
声が上ずらないよう気をつけながら、白井は何気ない風を装って呼びかけた。
「ん、どうかした?」
応える美琴に一切の刺々しさはなく、部屋でくつろいでいる時と変わらない穏やかさを取り戻している。
ツインテールの少女はそれを千載一遇の好機と捕らえた。
「頬に、クリームがついていますの」
「え」
反射的に手の甲でぬぐおうとする先輩の腕を、白井はしがみつくようにして動きを止める。
一か八か、ここが勝負どころである。
「ちょっと、アンタ何をするのよ」
「いえ、わたくしの口でぬぐって差し上げようかと」
「なっ」
あわてて身をよじろうとする美琴に、白井はお聞き下さいませ、となおも食い下がった。
浮かべる表情に焦りの色はなく、欲望にまみれたものでもない。
雰囲気に飲まれて黙り込む先輩に、是が非でも頬についた生クリームを摂取するべく真摯な態度で言葉を継ぐ。
「いいですか、お姉様」
「な、何よ」
まっすぐに瞳を覗き込まれて、美琴はわずかに動揺をみせた。
力ずくで来られたならば頑として跳ね除けたはずだが、
「ご褒美に今日は何でも言うことを聞いてくださるとおっしゃったのは、ウソでしたの?」
「……!」
備えのない搦め手を突かれれば案外脆いものである。
(いじらしさ! 今日のコンセプトはいじらしさですの。これで攻めますわ!)
ツインテールの少女は余計な言葉を重ねず、心持ち上目遣いで見やりながら先輩が口を開くのを待った。
「いや、そんな事はないけど、でも、だからってそんなの……」
学園都市第三位の少女は数秒の沈黙を挟んでいら立たしげに髪をかきあげると、軽くため息をついてから唐突に後輩の腕をつかんで立ち上がる。
「お姉様?」
美琴は、目を白黒させている白井の戸惑いに構う事なく手を引いて低木の茂みへ分け入り、二人が並んで立っても表からは姿が見えないほど幹の太い木の裏側へと回り込んだところでようやく足を止めた。
何故か視線を合わせようとしない先輩が何をするつもりなのかわからず、風紀委員の少女は言葉なく横顔を見つめる事しかできない。
静まり返った空気の中で、どれほど時間が経ったのだろう。
「あー、もう。約束だから仕方ないけど、次はないからね」
相変わらずそっぽを向いたまま、美琴は少し掠れた声で言った。
白井は思わず目を丸くし、次いでいくらか視線を伏せる。
触れずともわかる程に頬が熱を帯びている。
他の誰でもない、想い人があっさりと切り捨てられても仕方のない我がままを受け入れてくれたのである。
どうして喜ばずにいられようか。
「……はい」
ツインテールの少女は叫び出したいくらいに胸を高鳴らせながらも、そっと美琴のサマーセーターをつまむと、一歩、距離を詰めた。
「……っ」
美琴はうっすらと頬を上気させつつ近づいてくる後輩から顔を背けそうになるのをぐっとこらえて、かたく目を閉じる。
二人の距離は徐々に零へと近づき、白井の唇が赤く染まった頬に触れ、否、今まさに触れようとしたその時、
「!」
携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
どうにも気まずい雰囲気の中、ツインテールの少女はポケットから細身の電話を取り出し、受話可能のボタンを押した。
『白井さん』
聞こえてきた同僚の声に、返すべき台詞が思い浮かばない。
そして、デートに向かう直前まで白井と一緒にいた初春は、沈黙が意味するところを正しく察したのである。
『もしかして、バッドタイミングでしたか』
「バッドもバッド、超ウルトラ完全無欠に最悪のタイミングでしたわ」
気遣わしそうな声に対する返答がつい尖ってしまったのは無理からぬ事だった。
通話が終わってからさあ続きを、とはいかないのが世の常である。
「初春。この落とし前、どうつけてくれるんですの」
メールによる連絡ではなく電話がかかったということは、風紀委員が対処すべき事件が起こったという事だ。
それでも、あと数秒経ってからだったならと思わずにはいられなかった。
故意にそうしたわけではないとわかっていても、無念の大きさから恨み言の一つや二つ、吐き出さずにはいられない。
『御坂さんの危機を救ったということですね、わかります』
「……それはわたくしに喧嘩を売っているという認識で構いませんの?」
明確な殺意を感じてか、初春があはは、と乾いた笑いを漏らした。
だが、すぐに真面目な口調を取り戻し、
『すみません。冗談を言っている場合ではなくて』
「まったく。それで、場所はどこですの」
『はい。衛星からの映像によると……』
白井に事件の発生地点と状況を手短に伝えていく。
『それでは白井さん、よろしくお願いします』
「ええ、では」
通信が終了し携帯電話をポケットに収めたツインテールの少女はちらりと先輩を見やり、
(まさかこのタイミングで感度良好
の名を聞くとは思いませんでしたわ)
一体どんな皮肉ですの、と歯噛みした。
後編へ
ver.1.00 08/11/30
ver.2.00 13/5/25
〜とある乙女の貞操危機・舞台裏〜
インデックス:インデ 小萌:小萌 姫神秋沙:姫神
姫神 「ところで。つかぬことを伺うのだけれど」
インデ「どうしたの、あいさ」
姫神 「間接キスというものを。あなたは。意識したことがある?」
インデ「間接キス……?」
姫神 「小萌先生。説明を」
小萌 「どうしてこちらに振るんですか、姫神ちゃん」
姫神 「私よりも。人生経験が豊富」
小萌 「それはまあそうですが」
インデ「で、それは何なのこもえ」
小萌 「ええとですね、シスターちゃん。『間接』と『キス』がそれぞれ何を示すかは知っていますよね?」
インデ「うん。それは知ってる」
小萌 「でしたら話は簡単です。この場合の間接は間接的を意味し、キスはそのままですね。いわゆる接吻です」
姫神 「今時。キスの事を。接吻とは言わない」
小萌 「説明中にツッコミは厳禁ですよ姫神ちゃん! しかもさらっと年齢を感じさせるような発言を……! いいですか、この部屋でそれは完璧にNGワードです!」
インデ「ねえこもえ。つまり、何かを介してキスをするということ?」
小萌 「さすがですね、シスターちゃん。その通りです」
姫神 「意味が分かったところで。改めて。意識をしたことは?」
インデ「別に、これまでそんなことはなかったよ。と言うか、そもそもどういう時に意識をするのかわからないかも」
姫神 「缶ジュース」
インデ「?」
姫神 「食器。お箸。コップ。一つ屋根の下」
インデ「??」
小萌 「姫神ちゃん、それくらいにしておくですよ。シスターちゃんが困っているです」
インデ「???」
白地に金糸の刺繍を施した豪華な修道服を着た銀髪のシスターは、刻一刻と傾きを大きくしていた首を突然垂直に立てた。
インデ「……っ!」
姫神 「あ。逃げた」
顔を真っ赤にして部屋を飛び出してしまったところをみると、インデックスは姫神が言わんとしたのかをしっかりと理解したのだろう。
『これまでに何度も間接キスをしていた』事を、だ。
むろん、純白シスターの頭に浮かんだのは幻想殺しの少年であったと、追記しておく。
黒子×美琴SS第3弾はおなじみ初春に加えて佐天涙子の登場で、「とある科学の超電磁砲」寄りの人物構成となっています。
このお話を初めて書いた時は禁書のアニメで一方通行(アクセラレータ)と美琴、御坂妹の出番がてんこ盛りでしたが、超電磁砲でもその辺りのお話が進んでいます。
今期の放送で膨大な登場人物(大半が女の子ですが)たちがどれだけ登場するのかわかりませんが、動くところを見られるのが楽しみですね。
そういえば、原作のイラストを担当してらっしゃる灰村キヨタカさんのHPには、禁書キャラの設定資料やイラストがたくさん掲載されています。
ご興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。
それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。