思えば人間というものは呆れるくらい見事に新たな環境に順応していくもので、
いかな健脚の持ち主でも散歩コースに選ぶことなどないのではとさえ思える、
我らが北高へと至るくそ長い坂道を上ることも、
苦と言うよりは単にかったるいというレベルに落ち着いていた。

 それでも、抜けるようなという表現が似合うどこまでも青い空の上から容赦なく照りつけ、
更には肌を刺す痛みすら与えてくる強烈な日差しとアスファルトからの照り返しに加え、
この時期にあっても普段は心地よい涼気を提供してくれる吹き下ろしの風が生ぬるいとあっては、
いよいよ太陽が自律神経に失調を来たしたのかと心底思いたくなるし、
げんなりとした気分で何もこんな日に部室へ集まらんでもいいんじゃないのかという思いから、
無断で欠席することによって団長が用意するはずの罰ゲームと、
現在進行形で浴び続けている地獄のコンボ、
どちらがよりマシだろうかと真剣に考えたくなるのも無理はないと、
賢明なる皆さまにご理解いただければ幸いである。

 せめてもの慰めは、
ここに三度の飯よりも解説が好きなにやけハンサム顔が居ないことだろうか。
春や秋ならいざ知らず、今あの暑苦しいささやきを聞かされたら、
不快指数の高まりに耐えかねて思わず拳を振るいたくなることは必定だ。

 そこで、ふと気づく。
あまりの熱量で俺の脳が変調を来たしたんじゃないか、ってことにだ。
何が哀しくてヤツのことを思い浮かべねばならんのか。

 せめて心の中だけでも清涼感を覚えたいものだと思った俺の頭に浮かんだのは、
観測史上最高温度をたたき出したとしても平然としているに違いない宇宙人の姿だった。
あいつなら、真昼の砂漠に吹く熱風でさえそよ風のようにいなしてしまうことだろう。
多分、今この場に居たとしても汗一つかかずに歩くはずだと断言してもいい。

 そして、俺にも熱遮断システムを適用してくれれば何も言うことはない。
そうなったら、もはやこの体は地球人のそれとは違う、
未知の物質でできた何かになってしまうんだろうがね。

 俺はやくたいもない考えごとを頭の隅に追いやり手の甲で額の汗をぬぐってから、
わさわさと緑の葉を生い茂らせている桜の木に視線を向け小さく首を左右に振った。

 まあ、どうしたって夏は暑いもんさ。
わかってはいるんだが、実際どうにかならんものかね?

 灼熱する空の輝きを恨めしく思いながら、
懇願にも似たつぶやきを内心漏らすのと校門が目に入ったのは、
期せずして同じタイミングだった。




「キョンくん」

 ようやくたどり着いた文芸部室はパラダイスと呼んで一向に差し支えはなかった。

「おつかれさま。暑かったでしょう」

 自ら率先してメイドルックに身を包んだSOS団唯一のアイドルが、
何の表裏も感じらない慈愛に満ちた天使のほほえみと、
心からのいたわりをこめた言葉で迎えてくれるのだ。
視覚的にはもちろんのこと、何やら体の内側からリフレッシュした気になる。

「いやいや、朝比奈さんが笑顔で迎えてくださるおかげで暑さなんて吹き飛びましたよ」
「うふ、キョンくんたら。そんなことを言ってもお茶くらいしか出せませんよ?」

 いつもの席に座りながらことりと湯のみを置いてくれた朝比奈さんに礼を言って、

「よお、長門」

 俺は目線を右前方、いつものようにテーブルの隅で愛用のスチール椅子に座り、
本の虫と化している読書好き娘に声をかけると、
視線は手元に固定したままであったが微かに会釈を返してきた。
ハルヒの変化ぶりが滝を登り終えた鯉が竜になったようなものとすれば、
長門のそれは幼虫だった蝶がさなぎを経て成虫になったくらいの差があるんじゃないだろうか。
何しろ、誰の目にもわかるくらいはっきりとした形で応じてくれるんだからな。

 それにしてもかいがいしく給仕に勤める朝比奈さんを鑑賞しつつ飲む、
程よく冷えた麦茶のなんと美味いことか。
よみがえるよう、とはまさにこのことだ。

 上級生を可憐と形容するのもどうかという意見があるかもしれないが、
手持ちの語彙では他に飾り様のないほほえみを浮かべながら、

「あたしも頂こうかな」

 朝比奈さんは隣の席にちょこんと座り、両手ではさんで持ったカップに口をつけた。
俺も同じように湯飲みを傾けつつ、

「残りの二人はまだですか?」
「はい。涼宮さんと古泉くんはまだのようですね」

 律儀にも手を下ろした上こちらに向き直って答えてくれたことに軽く頭を下げる。
さすがにこれだけの猛暑ともなると、
あいつらの行動力にも多少の陰りが生まれるのか。

 まさか、な。古泉はなんだかん言ってタフだし、
我らが団長殿にいたってはそもそも心配すること自体が無駄と言える。

 部室に来ていないから学校に着いていないと考えるのは早計で、
とうに一番乗りを果たし、ハルヒの感覚において面白そうな、
俺たちからしてみればはた迷惑極まりない愉快なイベントを、
現在進行形で一人画策していたとしても驚かないね。

 と、不意にあることを思い出した俺は残ったお茶をぐっと飲み干した。
いかんいかん、忘れるところだった。
よもや確認されることはないと思うが、
ハルヒによる朝比奈さんに対するセクハラシーンの動画
涼宮ハルヒの感触参照)を消すことを約束した以上、
放置しておくのはやはり気が引ける。

 約束を交わした当の本人、
すなわち長門をこっそり見やると相変わらず石像のごとくじっとしたままページを繰っていた。
信用されているのか、あるいはどうでもいいことなのか。

 いずれにせよ思い出しちまったんだ、動かない訳にはいかんな。
幸いにも朝比奈さんはお茶をすすりつつ休憩中だ。
この間にやってしまえば万が一にも見られることはない。

 俺はぐっと伸びをすると何気ない風を装ってパソコンの前へと移動した。



 スイッチをオンにして窓の外を眺めることしばし、
OSが立ち上がったことを確認するとさっそく作業にかかる。
フォルダオプションを開き非表示設定にしてあった隠しフォルダの設定を変えて、
朝比奈さんのお姿が収められたそれが現れた。

 件の動画を右クリックし、カーソルを削除コマンドに合わせて人差し指に力を入れる。
だが削除の意思を確認するポップアップが登場し、
『はい』を選ぼうとした俺はわずかならぬ躊躇を覚えた。

 消さずに取っておこうと言うんじゃない。
ただ、俺と同じ立場にある人間が十人いたとしたら、
過半数以上が同じことを思うんじゃないだろうか。
可憐なる朝比奈さんの動画を消去する前に、今一度網膜に焼きつけおきたい、と。

 これはちょっとした出来心だったのだが、
そうした一瞬の迷いがこの後に待つ事件の引き金となった。

「キョンくん」

 いつの間にかお茶を飲み終え隣までやって来ていた朝比奈さんが、
こちらの顔を覗き込むように小首を傾げている。

 内心ぎょっとしながらも俺は喉まで出かかったうめき声をどうにか飲み込むと、

「どうしました、朝比奈さん」

 目線を年上には見えない上級生に向けたまま、
開いてしまった動画を我ながら素晴らしいスピードで消すことに成功した。
おかげで哀れにもコスチュームが大いに乱れた場面は、
間一髪朝比奈さんの目に映ることはなかったのである。

 とはいえ、だ。
超能力者でなければ鬼の速度でパソコンを操れる人型インターフェースでもない俺の能力では、
隠しフォルダを再び非表示に設定する余裕などあるはずもなく、

「あれ、あたしの名前のフォルダ?」

 メイド姿の先輩がぱちくりと瞬きをする見目麗しい横顔を披露する様を、
ごく間近、目と鼻の先で拝むこととなった。

 モニターから俺へと視線を移して朝比奈さんは、

「そういえば前にもありましたよね。
なんだか一生懸命見てたみたいだし、何が入ってるんですか?」

 新しいおもちゃを見つけた子どものように瞳をきらきらさせつつずいと顔を寄せてくる。

「あはは、何でもないですよ」

 無駄だとは思いつつも笑って誤魔化そうとしてみたが、
いくら素直で純粋なこの方でもさすがにこの状況ではわかりましたとうなずかず、

「もう、キョンくん、いじわるしないで隠さないで見せてください」

 興味津々の表情でマウスに手を伸ばしてきた。
さりげなくそれを避けながら、どうしたものかと思案する。

 はっきり言ってこの攻勢は中身を見るまで収まりそうにない。
だからって大人しく従う訳にもいくまい。さあ、どうする。

「キョンくんってばぁ」
「ははは……」

 朝比奈さんは少し向きになっているらしく、
なんとか俺の腕を捕らえようと右へ左へめまぐるしく移動する。
どうやらますますマウスの主導権を渡す訳にはいかなくなってきたようだ。
愛らしい上級生に絡まれる幸せを喜んでばかりもいられない。

 ですが、わかっていますか朝比奈さん。
そんなに体を押しつけられると、二つの胸のふくらみが当たるんですが。

 その時、何の拍子か視線を転じると長門と目があった。
いつも通り静止画のようにぶれのない平坦なまなざしに、
俺は少なからず後ろめたさを覚えて、

「ふふ、つかまえた」

 動きが止まったところを朝比奈さんに捕らえられてしまう。

「しまっ……」

 あわてて腕を振りほどこうとした次の瞬間、
バァンと扉が打ち破られんばかりの勢いで開かれた。

「おっはよー!」

 はずみで大きく体を傾いだ状態にあった俺は、
雲一つない青空のようにからりと晴れた明るい声を聞きながら、
平衡を保つことができず床に向かってダイブすることになったのである。




「痛つ」

 薄く目を開けると、俺は朝比奈さんを抱きとめるような形で倒れていた。
幸い、頭は反射的にかばうことができたようだ。

 ところで、人は見かけによらないとか、
外見からではすべてがわかりはしないといった文句がある。
一方で見たままが真実であることも、珍しい話ではない。
何が言いたいのかといえば、今俺の触覚を刺激している存在が見た目そのまま、
あるいはそれ以上の大きさと破壊力を有しているということだ。

 すなわち、朝比奈さんの胸は大きいという話である。

 夏服の薄い布地越しに伝わる柔らかな感触を意識するなというのは土台無理な話だ。
何しろ俺はこういう事態に遭遇して欠片もときめかないような朴念仁ではなく、
当然ながら聖人君子でもない訳で、まあ、その、なんだ。
谷口ほど暴走していない自信はあるが、十分健康な男子校生の範疇に含まれるだろう。

「大丈夫ですか、朝比奈さん」
「ん……あたしは平気」

 取りあえず先輩の無事を確認した俺は軽く首を振って入口のほうへと顔を向け、
口元にカモノハシだかアヒルだかの擬態を施した半眼の団長殿が目に入った。

 徐々に刺々しくなっていく面を見る限りすでに驚きの段階は通り越しており、
あと数秒の内には高確率で怒りへと変化することを本能的に悟った俺は、

「言っておくが事故だからな」

 努めて冷静な口調で言葉を放つ。
事実、後ろめたいことなど何一つないから堂々としたもんだ。

 ともかく、ハルヒはペリカンの物まねを止めて呆れ顔で小さく息を吐き出した。

「わかってるわよ。あんたにそんな甲斐性があるとは思えないし」

 えらい言われようだが、あれこれ勘ぐられるよりはマシかもしれん。
こいつのことだ、冗談抜きにつるしあげられた挙句に校内引き回しの刑もあり得る。

「す、涼宮さん?!」

 朝比奈さんは気の毒に思えるほどあわてて身を起こすと、

「涼宮さん、あの、そのぉ」

 しどろもどろに事態を説明し始めた。
しかしハルヒは皆まで聞かずこともなげに肩をすくめて言う。

「事故、なんでしょ?」
「はい」

 首を縦に振った後、立ち上がった朝比奈さんはわずかに眉根を寄せてこちらを見やった。

「大丈夫ですか、キョンくん」
「はい」

 お気遣い痛み入りますが、
いくら鍛えていない俺でも妖精のような女生徒一人くらいは余裕ですよ。

「うん」

 完全に納得した訳ではないのだろう、朝比奈さんはしばらく物言いたげにしていたが、
にこりとほほえんで団長用のお茶を用意するべく電気ポットに足を向けた。

 取りあえずは一件落着か、とぼんやり考えていると、

「で、いつまで寝てるワケ?」

 近くまでやって来たハルヒが腰に手を当てつつ聞いてくる。

「ああ、そういえばそうだな」

 実は、すぐには起き上がれなかったというのがその理由だった。
思ったよりも強く打ちつけてしまったらしく、かなり痛む。

 転んだばかりか打撲傷まで負ったというのは体裁が悪いため、
とぼけた台詞と共に立ち上がろうとした俺に向かってハルヒはいきなり手を突き出した。

「手、出しなさい」

 折檻、じゃないか。一体何をする気だ?

「あんた、とことんアホね。つべこべ言わずにさっさと出せばいいの」

 意図は不明だが、まさか合気投げをかましはせんだろう。

「わかったよ、ほら」

 投げやりに差し出した俺の手を団長殿は握手の要領でつかみ、

「まったく、気をつけなさいよね。ホント、どんくさいんだから」

 そっぽを向きつつも起き上がりやすいよう力を込めて引いたのである。

「……何よその顔は」

 正直、少し驚いた。
よりにもよってハルヒが勝手に転んだ俺にわざわざ手を貸してくれるなんて、誰が考える?

「わざわざでもないわよ。あんたがそこに転がったままだとあたしが団長席に座れないでしょ」

 さすがにお前でも人を跨ぐことくらいはためらう常識があったんだな。

「違うわ」
「どう違うんだ」

 即答ということは他に答えがあるんだろう。

 ハルヒは一度口を開きかけて、

「鈍いわね。それくらい自分の頭で考えなさい」

 どすん、と団長席に着いた。
この話は終わり、と横顔に書いてある。

 それについては俺も深く追求するつもりはないし、別に知りたいとも思わん。
だが、一つ言い忘れていることがある。

「ああ、ハルヒ」
「何」
「サンキュ」

 頬杖をついたまま画面とにらめっこをしていたハルヒにとって意外な単語だったのか、
小さく息を飲んだのがわかった。

「それこそわざわざ、よ。お礼を言われるほどのことじゃないわ」

 素っ気ないながらも返事を寄こしてきたことに俺はそっと肩をすくめると、
慣れ親しんだ椅子に向かおうとしてはたと立ち止まる。

 しまった、みくるフォルダが表示されっぱなしだ。

 痛恨のミスに、思わず額に手のひらを押し当てる。
今からハルヒが取る何らかのリアクションにどう対処すべきか、考えるだけで頭が痛い。
消えたはずのものが何故残っているのかと散々問い詰められるくらいならいいが、
先々ことあるごとにこのネタでネチネチと責められるのは目に見えている。

 よもや、削除をためらったツケがこんな形で回って来るとはな。やれやれだ。

 しかし、いつまで経ってもハルヒが怒号を発することはなく、
不思議に思って首をひねった俺の頭をある可能性が過ぎり、
こっそり見やった先で文芸部部長がごく小さな、ミリ単位のうなずきで応えてくれた。

 すまんな長門、感謝するぜ。


 この後、

「遅くなりました」

 内心安堵の吐息をついた直後に春を思わせる爽やかな微笑と共に副団長が現れ、

「次はライバル“ユキ”の撮影に入るわ。本編じゃなく、予告編のね。
ほら、キョン。ぼーっとしてないでカメラの用意よ」

 ようやくそろった一同に向かって指示を飛ばしていくハルヒは、
夏の日差しを思わせる満面の笑顔をみせていた。






「僕が付き添いましょうか?」

 日が長いため明るさは十分であるものの日中よりは幾分過ごしやすくなった頃、
曲がり角に差し掛かったところでくるりとこちらに向き直った古泉は、
俺とハルヒを等分に見やりながら口の端を緩ませた。
長門と朝比奈さんは途中で別れ、今は俺を含めた三人のみだ。

 本当なら、とっくに全員がばらばらに帰路へとついているはずなのだが、
それじゃあまた明日、と解散しかけたところで団長殿が異を唱えたのである。

「古泉くんはまっすぐ帰ってくれていいわ。あたしがキョンを送っていくから」

 ありがたい申し出だがな、俺なら一人でも大丈夫だと思うぞ。

「何言ってんの。あんた、結構強く腰を打ってるじゃない。
いい? 部員を無事帰宅させるのも団長の役目なんだから」

 そうかい。

「では、僕はここでお暇するとしましょう」

 無駄にハンサム振りを発揮させながら、
古泉は軽やかに手を顔の高さまで持ち上げさっと踵を返した。
様になっているとは思うが、意図してやったところで俺たちは喜ばんぞ。
俺には男の後姿を見て喜ぶ趣味はないし、
ハルヒに感銘を与えることは万に一つもあるまい。

 そのまま何となく古泉を見送っていた俺は、

「さ、行くわよ」

 ハルヒに袖を引かれて目線をそちらにやった。
しかし、毎度のことながら責任感の強い女だ。

「ところで本編の中身は考えているのか?」
「まだよ」

 即答だな。

「安心なさい、時間はたっぷりあるわ。
インスピレーションなんてものは望めば来るもんじゃないし。
と言っても、大まかな流れは考えているつもりだから大船に乗った気持ちでいてくれていいわよ」

 たいした自信だ。ま、頼もしく思っておこう。
とはいえ、去年みたくぐだぐだなストーリーは勘弁願いたいが。

「それに、毎日そんなのがやって来るなら、あたしは多分その道に進んでいたはずだわ」
「違いない」

 超監督の腕章をつけ本場ハリウッドに殴り込みをかける姿が目に浮かぶようだ。
もしそんなことになっても、頼むから俺を巻き添えにしないでくれよ。

「キョン」

 どうした?

「ちょっと、曇ってきてない?」

 言われて初めて気づいたが、
あれだけ晴れ渡っていた空はいつの間にやら厚い雲に覆われていた。

「ああ、すごい雲だ」

 こいつはひょっとすると、いや、確実に降るんじゃないか?
なんてこった、朝の降水確率ゼロというニュースを信じて、
今日は折りたたみの傘なんて持ってきてないぞ。

 と、ハルヒが小さく鼻をひくつかせていることに気づく。

「空気が湿っぽくなってきたわ。どこか、軒先に行ったほうがよさそうね」
「同感だ」

 はっきりと湿気がわかるくらいだ、いつ降ってもおかしくはない。

「走るわよ」
「ああ」

 だがすでに時は遅く、 駆け出した直後に俺たちをあざ笑うかのごとくぽつりと水滴が落ちてきて、
あとは指折り数えられるくらいの短い時間で、
雨はバケツを逆さにひっくり返したような量になっていた。






 定休日だった店の軒下に避難した俺たちは、激しい雨音を聞きながら空を見上げていた。
びしょ濡れになったカッターシャツはアンダーごと体に張りついていて、
このまま歩いて帰ってもたいした違いはないんじゃないかとさえ思える。

 しかし、ハルヒには悪いことをしちまったな。一応、謝っておくか。

「すまんな、ハルヒ」
 俺の声に反応して、ダークブラウンの大きな瞳がこちらへと向けられた。
が、すぐに首を傾げるところを見ると何の話かわかっていないらしい。

「いや、俺について来なけりゃお前が濡れることもなかっただろうと思ってさ」
「へえ、えらく殊勝な心がけね。感心感心」

 ハルヒはさも楽しそうにニヤリと笑ってそう言うと、

「気にすることはないわ。あたしが望んでついてきたんだから」

 片方の手のひらを肩の高さで上向け、ついでのようにすくい上げた髪を耳の後ろへと流した。

「それに、キョンがついて来て欲しいと言ったとしても、
こんな雨が降るなんて誰も予想できないわ。でしょ?」
「まあ、な」

 もっともな言い分だ。
それでも、実際その通りだったら文句の一つや二つは言うに違いない、 と付け加えておいてやろう。
もちろん胸の内で、だがな。

「ああ、そうだ」
「?」

 きょとんとした顔の団長殿を尻目に、俺は自分の鞄をあさり始めた。
今朝、家を出る直前に妹が渡してくれたハンドタオルが入っていることを思い出したのだ。
黄色い生地でひよこのアップリケがついた代物だが、水気を吸ってくれることには変わりない。

「ほら、使えよ」

 言いながら、再び仏頂面に戻って天を仰いでいたハルヒの肩に置く。
お詫びというほどのものでもないが、これくらいはしてもいいだろう。

「……ありがと」

 ハルヒは受け取ったタオルでしばらく髪を拭いていたが、

「あんたも使いなさいよ」

 何を思ったのか唐突にそれを押し付けてきた。

「でも、まだちゃんと拭けてないだろう」
「いいから使いなさい」
「わぷ、ちょっと待てわかったから」

 実力行使に出たこの女を止められる者などこの世に存在しない。
いくら言って聞かせたところでハルヒは手を引っ込めないだろうし、
ぐいぐいと顔にタオル地を食い込まされ続けるくらいなら、
さっさと受け取って本来の用途に使った方がいいに決まっている。

 厚意と呼ぶには力ずくなようにも思えるが、突き返すほどのものでもないしな。

「……」

 三点リーダーを生み出しつつ雨音が響く軒下でがしがしと頭を拭いていた俺は、

「なあハルヒ」

 目線を前に向けたまま隣人の名を口にした。

「何」

 ハルヒがこちらを盗み見ている気配を感じながら、

「昼間のことだけどな」

 自分でもどういう心境かわかりかねるが、ともかく告白をおっ始めたのである。

「あの時はただ、消そうとしていたんだ」
「何を」

 しかし、ハルヒは淡々と単語を口にするのみで、

「要らんデータだ」
「あ、そう」

 つまらなさそうに生返事をする。

 だが、その理由は俺が考えていたものとは少し違ったようだった。

「いいわよ、説明してくれなくても。嘘じゃないんでしょ、あれは」
「ああ」

 ハルヒの言葉を意外に思いつつも、はっきり応と答える。
今のところ本当のことしか言っていないからな。
もっともこれ以上言葉を重ねていたら、嘘が混じったかもしれないが。

「それにしてもなかなか止まないわね」

 まったくだ。
夕立にしてはしつこく降り続けている。
とはいえ、せめて雨足が弱まるまではここに居なければ雨宿りをした意味がない。

「少し冷えてきたし」
「ああ……と、ハルヒ?」

 不意に後ろへ下がり出したハルヒは、

「いいのよあんたはじっとしてて」

 ぴしゃりと言って動きを止めた俺の背後に回りこんだ。
なんだ、と思う間もなく重みと温もりがやってくる。

「どうしても暇なら早く雨が止むように祈ってなさい」
「なんだそりゃ」

 小さく苦笑して、心持ち肩の力を抜く。
そういや、前にもこんなことがあったな。そう、去年の夏に孤島へ行った時だった。

 それにしても、だ。

「何よ」
「いや、別に」

 背中合わせに伝わるこいつの体温を心地よく感じるなんて、どうかしてるのかね、俺は。






ver.1.00 08/09/27
ver.1.13 08/09/28
ver.1.40 08/09/29
ver.1.53 08/03/25

〜涼宮ハルヒの接触・舞台裏〜

佐々木「なるほどね。キョン、キミは北校でこんな日常を過ごしてきたんだね」
キョン 「ああ、ハルヒと知り合ってからこっち、
     毎日毎日あいつに振り回されてばかりさ」
佐々木「くく、振り回されてばかり、か。面白い表現をするね」
キョン 「面白いも何も、事実そのものだ。
     代われるものなら一度代わってやりたいくらいだぜ」
佐々木「できるなら一度と言わず何度でもキミのポジションに立ってみたいものだよ」
キョン  「俺のポジションに? なんの冗談だそりゃ」
佐々木「くく、キミこそ冗談を言ってはいけないな。
    まったくうらやましい限りだよ。ありきたりな言葉かもしれないが、
    高校生活をエンジョイするというのはまさにこういうことなのだとさえ思えるよ」
キョン 「ま、何を言っても俺は当事者だからな。
     端から見ればそういうものなのかもしれん。
     実際、楽しんでいないわけでもないしな。たまに愉快すぎて泣けてくるが」
佐々木「魔法以上の愉快が限りなく降り注ぐ、か」
キョン  「なんだそりゃ」
佐々木「ともかく、楽しんでいるのはキミの顔を見ていればわかるよ。
    本当、うらやましい限りだ」
キョン 「そうかい」
佐々木「キョンが涼宮さんたちの話をしている時は、実にいい顔をしているんだ。
    自分では気づいていないだろうけどね。どう表現すればいいのかな、
    あらゆるプラスの感情が向けられているとでも言えばいいだろうか」
キョン 「いい顔、ね」
佐々木「ああ、とてもという副詞付きでね」
キョン 「しかし、うらやましいなら自分も同じようなことをしてみたらどうだ?
    俺なんかよりよっぽど佐々木の方が上手くやれそうな気がするんだが」
佐々木「自分のことを内向的とは思わないけどね。キミと同じようにはできないさ。
    そもそも、僕の周りには変わった人たちしか居ないからな」
キョン 「あいつらはあまりにも変わりすぎだ」
佐々木「はは、確かにね。おそらく世界中を探し回ってたとしても、
    彼女たち以上に特殊な人材を求めるのは難しいはずだよ。
    とはいえ、それはキミの周りでも同じではないのかな」
キョン 「まったくだ。未来人や宇宙人や超能力者がありふれた存在とは思えんからな」
佐々木「ところで、ひとつ聞いておきたいことがあるんだ」
キョン 「なんだ?」
佐々木「あの時、少しはドキドキしたのかい?」
キョン 「は? 何のことだ」
佐々木「だから、涼宮さんがキミに背中を合わせてきた時のことさ」
キョン 「待て。どうして俺が胸を高鳴らせなければならん」
佐々木「ほう、それは本心からの答えかい?」
キョン 「そのつもりだが」
佐々木「なるほど。では、そういうことにしておくよ」

 そういうことにしておくも何も、それ以外の何があるって言うんだ?

佐々木「まったくもって、うらやましい限りだね」

 くつくつと喉の奥で笑う佐々木に、そういうもんかね、と俺は肩をすくめるのだった。




 一話分としてはこれまでで最も長い話になったかと思います。
一応注釈をつけておくと、このお話は涼宮ハルヒの感触のすぐ後です。
なお、予告編の撮影風景については後日挑戦しようと思っています。
その時は、長門にスポットライトが当たることになるでしょうか。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。
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