記憶なんざ欠片も残っちゃいない赤ん坊時代から数えると、
通算十七度目となる新たな一年が始まっても、
暮れる前と比べてこれといった変化は起こらなかった。
朝、目覚ましのボディプレスを妹がかましてくるのもいつもどおりであり、
同じような構成の番組がテレビ欄にずらりと並んでいるのも毎年恒例で、
思えば、徳川だ戦国だといっていた、ご先祖さまの顔写真どころか記述さえないような時代から、
この国の人間は延々と謹賀新年と祝ってきたわけなのだが、
今後、西暦であれ和暦であれ数字が一つ加算されるだけのタイミングを迎える度、
心の底からめでたいと思うことなんざあるのかどうかよくわからないというのが正直なところである。

 とはいえ、世の中は何もかもが杓子定規にできているわけじゃないということを、
去年のGWが明けてしばらく経った頃に身をもって知らされた今は、
お決まりの感想にも決して小さくない影響を与えていた。
当時は知覚する術を持たなかったが、少なくとも三年程前から自分の中にある常識が通じない、
一風変わったルールの下で回り続けている地球は存外愉快な仕様になっていて、
退屈なんて言葉を口をする機会は随分と減った気がするし、
むしろ、この数ヶ月はそんなことを考えることもなかったように思う。

 それはそれとして当面こうした状況が続くことは想像に難くなく、
一々正月が来たくらいで腹の底からめでたい気持ちになっていたら、身が持たないだろうよ。
何しろ宇宙人や未来人や超能力者が身近にいて、
そのうちひょっこりと異世界人が現れるかもしれないんだからな。

 そういった仕儀で、有り体に言えば俺は束の間のオフを堪能していたわけなのだが、
世界改変から解放された世界で目を覚ましてから一週間あまりが過ぎたその日、
文字どおり俺の世界観を大いに変えた女があっさりと怠惰なる日々に終止符を打ったのだった。

『あんた、初詣はまだよね』

 携帯電話のスピーカーを通じて聞こえてくる第一声に、思わず口の端が持ち上がる。
とはいえ別段、驚きはない。むしろ遅いと感じたくらいだ。
おかげでこちらは代わり映えしない正月番組にすっかり食傷気味だったからな。

 言うまでもないことだが、ハルヒからの連絡を待ちわびてそうしていたわけじゃない。
扶養されている立場にある以上、妹のお守りを命じられれば大人しく従わざるを得ないのさ。

『動けるんでしょ?』

 それにしてもわざわざこちらの様子をたずねるなんざ、団長殿にしては珍しい。
これが退院後間もないための特別待遇なら、
この先、俺のステータスを退院後すぐ、に固定してもらいたいもんだ。

 いずれにしても、次みたいな台詞が飛び出すくらいだ、
気遣いなんかじゃなく単なる気まぐれだったのかもしれない。

『まあいいわ。今から一時間後、いつものところで。オーバー!』

 新年の挨拶すらなしに質問から入るばかりか、
こちらにひと言もしゃべらせないまま用件を伝えて電話を切っちまうつわものは、
後にも先にもこいつ一人だろうよ。

「まったく」

 口中そっとつぶやいて、ソファに深く背をもたせかけ天井を見上げる。
初詣とか抜かしていたが、どこに行くつもりなのか顔を見るまでわからない。
あいつは、いつ何時、気まぐれで何を言い出すかわからないからな。

 そんなことを考えていると、目と鼻の先にシャミセンを抱いた妹が満面の笑顔で出現した。

「キョンくん、どこか出かけるの?」

 頭頂部の側から覗き込まれながらの唐突な質問に、取り敢えず瞼を下ろす。

「どうしてそんなことを聞く、妹よ」

 俺はひと言も話していなかったと思うのだが。

「だって、キョンくん楽しそうな顔してるもん」

 何だそりゃ。
迷うことなく返してきた言葉に、思わず眉を寄せる。
いつ俺が楽しそうな顔をしていたっていうんだ。

「ねーねーハルにゃんたちと? いいなー、キョンくんいいなー」
「あー、その、なんだ。まだ冬休みの宿題が残っていただろ。
遊びに行くのはあれを片付けてからにしなさい」
「んー、わかったー」

 お察しのとおり自分の分はいっさい手をつけていないのだが、
それでもこうして年少の者をたしなめることは、精神衛生上、兄の務めということにしておく。


 駅前に到着した俺はいつもの場所に自転車を止めてから、
マフラーに顔を埋めるようにしつつ待ち合わせ場所に向かっていると、
白いダウンジャケットを着込んだハルヒがこちらへと歩いてくるところだった。
気づいたのはほぼ同時だったようで、冬の真っ只中にも係らず、
夏の日差しもかくやと思わせるまばゆいばかりの大輪を咲かせつつ、手を振ってくる。

「よう」

 軽く腕を持ち上げて応えた時には、互いの距離は数十センチまで狭まっていた。
相変わらずエネルギーがあり余っているらしく、見事な加速ぶりである。
こんなことなら、こっちから声をかけてやったほうがよかったか。

「新年早々あたしを待たさずに現れるなんて、殊勝な心がけじゃない」
「まあ、団員だからな」
「どのツラさげて言ってるのかしら」

 団長殿は楽しそうに目を線にすると、二の腕を軽く叩いてきた。
新年仕様なのか、トレードマークの黄色いカチューシャの代わりにかんざしが髪に刺さっている。
白梅だろうか。微かに赤く色づいためしべが愛らしい。

「これ、気になる?」

 俺の視線に、ハルヒはわずかに歯を覗かせて笑う。

「最初はいつものやつを付けたんだけど、なんか違うと思ってやめたの。
上手く言えないわね。とにかく、今日はそういう気分だったのよ」
「そうか」

 まあ、いいと思うぞ。似合ってることだしな。

「当たり前でしょ」

 さらっと受け流されたが、満更ではなさそうだった。
そうかと思えば、急にじろじろと俺の顔を覗きこんでくる。

 顔に何かついているのか。
思わず自分の頬に手を伸ばしかけた途端、しみじみと言われてしまった。

「逆にあんたは、代わり映えしないわね」

 歯に衣着せぬ物言いに、小さく肩をすくめる。
マフラーは登下校の際に巻いているやつだし、着ている服も有名なブランドものじゃない。
上下で色調とか柄を合わせるくらいのことはしているが、
気合を入れておめかしをしてきた訳ではないため、こいつの言葉はもっともだと思ったのだ。

「別にけなしているわけじゃないのよ。変だとは思わないし、ほら、靴はおニューだし」

 とってつけたような台詞である。
それでも、少しばかり意外だった。

「よく見てるな」
「たまたまよ」
「そうかい」

 と、向けられた表情がやや改まったものになる。

「ところでキョン」
「なんだ」

 また妙なアイディアでも浮かんだのか。

「違うわよ。そうじゃなくて」

 自分でもそういう認識があるわけだ。
ともかく、何か言いたいことがあるらしい。ここは茶々を入れず待つことにするか。

「つまり、あたしが言いたいのはね」

 口をはさまず相槌を打つ俺に対し、
ハルヒは一度開きかけた口を閉じる動作を二度繰り返し、コホン、とわざとらしく咳払いをした。

「まあ、ありきたりな挨拶とは思うけど、一応、謹賀新年と言っておくわ」

 まったく想像していなかったこの発言に、思わず目を瞬かせる。
そういえば、新年の挨拶はまだだったか。

「何よ。文句ある?」
「いや、別に」

 見慣れたアヒル口の登場にくつくつと笑っていると、くちばしの尖りようが顕著になる。
仕方がない。ここは、つつしんで喜びを申し述べさせて頂くとしよう。

「謹賀新年」

 今年もよろしくな、ハルヒ。


 斬新な挨拶の余韻に浸る間もなく、団長殿はじゃあ行くわよと言うが早いかいきなり歩き出した。

「おい、ハルヒ」
「何よ」

 答えは返ってくるが、ハルヒの足は止まらない。
仕方なく小走りで並びかけて、問いを放つ。

「どこに行くんだ?」
「神社。季節に合ったイベントは大事にしなくちゃ」

 ふとあることに気づいて周囲を見渡す。見知った顔はおろか通行人の姿もない。
今年の正月はどこの家庭も出歩かないことにしているのか。

「それについて異論はないが、朝比奈さんたちは? 古泉も長門も見当たらないが」

 時間を確認すると、待ち合わせの時間はとっくに過ぎていた。そろいも揃って珍しい。
しかし、すぐさま訂正のツッコミが入る。

「言っとくけど、みくるちゃんなら来ないわよ。古泉くんも、有希もね」

 なんだ、遅刻じゃないのか。

「そんなわけないじゃない。キョンじゃあるまいし」

 それだとまるで俺が常習犯みたいだな。

「まるでじゃなくて、そのとおりでしょ」

 じゃあ、今日は俺たちだけってことか。

「そうよ。だって今日はSOS団の集まりじゃないもの」

 だったらこれは、何の集まりなんだ。

「決まってるでしょ。初詣よ」

 答えになっていないような気がするのは俺だけか。

「うるっさいわね。さっきから黙って聞いていれば、文句しか言えないわけ?」

 その発言にどう切り返すべきか迷うところだが、
文句というより率直な感想を並べているだけだ。

「まあ、最初は一人で行こうと思ってたのよ。ただ、年末にあんたが転んだことを思い出して、
あの後はずっと篭りきりかな、ってそんな考えが浮かんだ時には電話をかけていたわ」

 最後だけ聞くとまるで夢遊病だな。

「失礼ね」
「そりゃ失敬」

 心持ち歩みのペースを上げたハルヒの背を見やりながら、そっと肩をすくめる。
こいつなりに気遣ってくれた、と好意的に解釈するとしよう。


「ところでハルヒよ。目的地はまだ先なのか」
「そうね。あと半分、ってところかしら」

 歩き始めてからかれこれ二十分は経っただろうか。
延々と坂を登り続けながらも息一つ乱さず平然と言ってくる辺り、
体験入部をした際に引く手数多だっただけのことはある。

 自転車を置いてきたことが悔やまれるぜ。
もっとも、その場合は後ろにこいつを乗せての強行軍となったに相違なく、
今頃指一本動かせなくなっていたかもしれないがね。

 どうやって見つけてきたのかは知らないが、随分と距離がある場所を選んだもんだ。

「もしかして、もう疲れちゃったわけ?」
「不本意ながらな」

 意識は過去を行ったり来たりしているせいで実感はないが、
この体は数日寝たきり状態にあった分、きっちり弱っているらしい。冬休みでなけりゃ、
北高へと至るくそ長い坂道の往復を繰り返してとっくに戻っていたんだろうけどな。
こればかりは言っても始まらない。

 ぼんやりそんなことを考えていると、ハルヒは不意に立ち止まって半身でこちらを振り向いた。
ただし、視線はそっぽを向いている。

「仕方がないわね。手、出しなさい」
「手、ってどうするつもりだ」

 差し出された手とどこか怒ったように見える顔とを交互に見ながら質問すると、
団長殿は目を合わさないままかんざしを軽くいじりながらため息混じりに語を継いでくる。

「体力、落ちちゃってるんでしょ。その分を補ってあげると言ってるの。
引き返そうとも思ったわ。でも、この近くって学業とか安産とかそんなのばっかりで、
健康をウリにした神社は今向かっているところしかないわけ」
「……ハルヒ」

 これを聞いた俺がどんな表情を浮かべていたのかはわからない。
戸惑いはあった。驚いてもいた。意外でもあった。

 それでも、だ。
こいつがどういう気持ちで動いたのだとしても、わざわざ探したことは間違いない。

「勘違いしないでよね。団長は、団員の安全を祈願するものなんだから」

 ハルヒは半ば言い捨てるような語調で俺の手をつかんだ。

「四の五の言わずに着いてきなさい」

 腕を引かれて、自然と足は前に進む。
こういうところは恐れを知らないいつもの団長殿だった。

 ただし、新たな部を作ろうと言ったあの時みたいなことはない。
ほんの少しだけ、ごく微量ではあったが遠慮らしきものはあった。

 しかし、それを微笑ましく思う余裕は今の俺にない。
何故なら、ちょうど日陰になっているためかアスファルトの黒が雪によって覆い隠されていたからだ。

「おい、ちょっと待ってくれハルヒ」
「何よ。楽してるんだから少しは我慢しなさい」
「そうじゃない。そうじゃなくて!」

 手を引っ張ってくれるのはいい。
だが、こんな調子でずんずん歩いていくのはさすがに無謀すぎる。

 結論から言うと、警句を発したのは少しばかり遅かった。
わずかにスピードが緩んだその瞬間、ハルヒの体が手品か何かのように宙を舞ったのだ。

「きゃっ」

 悲鳴を聞いたのが先か、身を投げ出したのが先だったのか。
どこにそれだけのパワーを秘めているのかわからない細身の体をキャッチした俺は、
歩道の脇に積まれた白い塊に飛び込んでいた。


「大丈夫か」

 柔らかな腹の上に突っ伏していた俺が顔を持ち上げると、ハルヒが殊勝な態度をみせていた。

「……ごめんなさい。まさか、凍っているなんて」

 それも、申し訳なさそうな台詞付きである。
言わんこっちゃない、という言葉は思うに止めることにする。

「ケガはないんだな」
「うん。キョンのおかげで何とか」

 不幸中の幸いとはよく言ったものだ。
二人とも、雪まみれになってしまった以外にこれといった被害はないらしい。

「ま、よしとしようぜ。お互いケガもなかったことだしな」

 素直にうなずく姿は、なんともいじらしかった。
この十分の一でいいから、日頃の言動に反映させてもらいたいもんだぜ。

 と、結晶化した水の塊に緋色のきらめきを発見した。
すわ出血かと思ったのも束の間、すぐにそれが同行者の所有物であると悟る。
今の騒ぎですっぽ抜けたのだろう。

「立ち上がるぞ」

 一応呼びかけてから金属製の装飾品をつまみあげて、華奢な印象の体を抱き起こす。
妙に気恥ずかしいのは、いい年をして新年早々転んじまったからかね。

「ハルヒ」
「……何?」
「これだ」

 示された物を目にした途端、あ、と音のないつぶやきがこぼれた。
その頬は、寒さのためかほんのりと朱に染まっている。

「ちょっとじっとしててくれ」

 黒髪についた雪を払ってから、記憶にあった形にかんざしを差した。

「ありがと」

 不思議なことに、始終手間取り通しだった俺に対してハルヒが文句を言うことはなかった。

 そこからはこれといった事件に遭うこともなく、初詣を済ませた俺たちは駅前で別れ、
明日にでも電話がかかってくるんだろうなと思いながら、
路上駐車の取り締まりをすんでのところで免れた自転車にまたがって帰路についた。

 あの後、俺たちが手をつないでいたかどうかはご想像にお任せする。

ver.1.00 12/1/8

舞台裏は後日公開いたします。

 随分と久しぶりな、一年ぶりのハルヒSSです。
今回は、消失後のハルキョンというお誕生日リクエストにお応えいたしました。
お楽しみ頂けましたら、幸いです。



 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。



涼宮ハルヒの憂鬱・小説お品書き
その 他の二次創作SSメニュー
inserted by FC2 system