気づけば、周囲は手元さえもぼやける程の濃霧に閉ざされていた。
まったき乳白色が一面を埋め尽くし、数歩先以降はもはや何も見通すことはできない。

 通常、これだけ濃いものであれば衣服や髪は水気を吸って濡れるはずなのだが、頬を撫でる風はさらりと乾いていて、湿気はおろか濃霧に伴うはずの冷やりとした感覚もなかった。
あるのはただ白が世界を一つの色に染めているという事実のみで、それすらもどこか実在感に欠けて見える。

 この世ならざる異能の力によって歪められてしまったような不自然な世界に、ぽつりと立ち尽くす全身白のスーツに身を包んだ若者は、一見、そのまま風景に溶けてしまうのではないかと思えた。
唯一ささやかな彩りを与え得るオールバックにした緑色の髪も、この白濁した世界では希薄な存在でしかない。

 その時である。

「どこに居るの、あうれおるす」

 霧の向こうから愛らしい声が聞こえてきた。

「……!」

 アウレオルス=イザードは整った顔に驚きの色を添えて、後ろを振り返る。
この声は紛れもなくあの子のものだ。
目に入れても痛くないと常から思う、己の全て、命でさえ容易に捧げる事をいとわない相手である、愛に満ちあふれた少女、インデックスの声を聞き違えるはずがない。

 だが、ゼロに等しい視界の中ではおぼろげな影さえ捕らえることはできなかった。

「周囲百メートルにわたり霧よ、晴れよ」
 アウレオルスは迷わずこの世の(ことわり)を思い描くことで意のままに操ることができる絶対の力、黄金練成(アルス=マグナ)を行使したが、状況に一切の変化はない。

「……?」

 オールバックの若者はぴくりと片眉を持ち上げて、鍼灸用の針を取り出すべく懐に手を伸ばしかけると同時、唐突に世界が変容する。

 立ち込める濃霧の一角が切り取られたかのようにぽっかりと姿を消し、白地に金糸の刺繍を施した豪華な修道服を着た銀髪のシスターが目の前に現れたのだ。

 アウレオルスは効果の発現が遅れたことに少なからず違和感を覚えつつも、

「あ、見つけた」

 少女の見る者に心からの安堵を与える優しい笑顔に思わず頬を緩め、しかし、一転してその表情はぎょっとしたものとなる。

 いつから都市伝説を幻視するようになったのか。
我が目を疑い幾度も瞬きをするが、インデックスの首から下は肩から紐で吊るすタイプの白いエプロンに変化したままだった。
その下には何も身につけていない。つまり、裸体に直接エプロンをかけたのみである。

「率然。禁書目録、その格好は一体」
「覚えてないの? 新婚さんごっこをする、ってあうれおるすが言ったんだよ」
「!?」

 アウレオルスは目に見えてうろたえていた。
それでも体は彼にとっての生命線である落ち着きを取り戻すべく反射的に動き、精神の安定に欠かせない針を取り出し首筋に打ち込んで、内心呆然とうめく。

(新婚さんごっこ……だと?)

 そのような発言をした記憶はなかった。
それよりも、何故彼女はこのような格好をしたまま平然としていられるのか。
いささか食欲が旺盛過ぎるところには目をつむるとして、模範的とも言える普段の敬虔さと照らすまでもなく有りえない行為だった。

 布地が覆うのはわずかに胸元から太ももの半ばまで、透き通るような白い素肌を覗かせている柔らかなラインを描く肩と小振りな膨らみによって構成された肢体は、未成熟な少女から女に羽化しかかる未分化な状態ならではのみずみずしさに満ちあふれている。

「そういうぷれいだから、どうしてもこの格好が必要なんだ、って」

 満面の笑顔で言うインデックスに、アウレオルスは立ちくらみすら覚えた。
清らかなる乙女を前に(よこしま)な感情を抱いてしまった自分が恥ずかしく、とても正視することができない。

 しかし、少女はそれを許さなかった。

「ねえ、どうかした? なんだか顔が赤いかも」

 いくら顔を背けようとしても、その度インデックスは正面に回って気遣わしげに顔を覗き込んでくるのだ。

「もしかして風邪? だったら、温かい格好をしなくちゃいけないね。何か、体が温まるものでも飲む? それとも、くっついて温めたほうがいいのかな」

 更に、愛くるしい表情の下には悪魔の誘いが待っていた。
エプロンのみしか身につけていないが故に、背の高い錬金術師の視点からは体をよじる度に胸元が見え隠れする。
ともすれば、淡く色づいた先端の突起部分すら見えてしまいそうだった。

 アウレオルスは思わず凝視しかけていた事に気づいて、あわてて天を仰ぎ、きつく目を閉じる。

(超然。今求められるのは鉄のように強固な意志。これは何かの間違いだ。私がこの少女を、禁書目録を異性として捕らえるなどあり得ない話だ。否、断じてあってはならない!)

 インデックスを性の対象とすることは彼にとっては度し難い行為だった。
自身の矜持と信仰心に賭けて、このようなことは認められない。
エプロンの上部から食い込むような角度で眺めたいだとか、あまつさえ、ひらひらとした布地をめくり上げて直接裸体を拝みたいなどといったことは、考えるだけでも万死に値する。

 だが、少女の行いはどうにか冷静さを保とうとするアウレオルスの精神を猛然と揺さぶった。

「ねえ、あうれおるす。あうれおるすってば」

 心配そうに眉根を寄せてすがりついてくるインデックスの、薄い生地を通じて伝わってくる温もりが彼の理性を溶解させていく。

「もう、あうれおるす! 隠そうとしたって無駄なんだからね」
「!」

 翠色の髪の錬金術師はこの上なく目を見開いた。
今まさに頭の中を占めているよからぬあれこれが、救いようのない妄想がすっかり読み取られてしまったのではないかという思いから、
恐怖にも似た感覚に襲われたのである。

(当然。禁書目録は私に軽蔑の眼差しを向ける。汚らしいものを見るかのような目で、私を……)

 魔術を使うことができない少女が心を読む力を持たない事は完全に意識から消え、激しく動揺したアウレオルスが待ってくれ、違うのだと弁解するよりも先に、インデックスは小さく唇をとがらせた。

「いくら顔を背けたって赤いのはバレバレなんだよ! 嫌がらないで横になる! それ以上熱が上がったらつらくなるのはあうれおるすなんだよ?」

 それまでアウレオルスが浮かべていた苦悶の表情は、途端に呆けたものへと変わる。

 エプロン姿の少女は完璧なまでに純粋だった。
そう、今インデックスにとって重要なことはただ一つ、錬金術師の体調なのだ。
もし症状が悪化すれば辛くなる、そのことだけを心配しているのである。

 アウレオルス=イザードは雷に打たれたような衝撃を受けた。
幸い、相手はシスターだ。深く恥じ入った彼はすべてを懺悔することにした。

「禁書目録」
「?」

 しかし、アウレオルスの口は不意に彼の支配を離れて予定外の言葉を放つ。

「必然。その裾はめくれ上がる」
「えっ……?」

 インデックスが短いつぶやきをこぼしたその時、足元から吹き上がった突風によってエプロンは一気に肩口までめくれあがり、

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁ!」

 銀髪の少女は絹を裂くような悲鳴と共にうずくまってしまう。
だが、その刹那とも呼べる短時間のうちに、幼さを残すインデックスの体は細部にいたるまでアウレオルスの脳裏に焼きつけられていた。

 次の瞬間、錬金術師の体内に熱いうねりが生じ、

「ぐ……っ」

 こらえきれずくぐもったうめきを伴って噴出する。

「これは」

 茫然とつぶやくアウレオルスの顔から滴り落ちた液体が、ぽたりと地面を濡らした。
色は赤、興奮のあまりあふれ出した鼻血である。

 しかし、彼はすぐに異様な事態が起こっている事を知覚し自失した。

 今度は世界が何の前触れもなくその有り様を変えたのだ。

「……禁書目録? どこだ、一体どこに」

 つい今しがたまで目の前にいた少女の姿は視界から消え、四方には地平線の彼方まで何もない平坦な世界が広がっている。

「馬鹿な、あり得ん。たった今までそこに居たはずだ」

 アウレオルスは取り出した針を首筋に突き刺した。
心を落ち着けるために次々と刺し、刺し、刺し続けた。

 だが、いくら試しても一向に効果は現れない。
いつものような、速やかな平安はいつまで経っても訪れない。

 その事実が彼の心に不安を生じせしめ、程なく雲霞のごとくあふれ出して胸を圧していった。

 万能のはずである力も、望むべきものが思い浮かべられない状況では何の役にも立たず、

「馬鹿な!」

 錬金術師は信じられない思いで手にした針を地面に叩きつける。

(一体どうなっている? あり得ん、あり得ん、あり得ん……!)

 刻一刻と高まる焦燥感は程なく絶望的な気持ちに転換し、アウレオルスの自我をもじわじわと侵食し始めたその時、周囲の空間に微細なひびが生じたかと思うと瞬く間に亀裂は広がって、取り巻くすべてがまるで薄いガラスで出来ていたかのように、粉々に砕け散る。

 そして三度、世界は姿を変えた。

 足場のない奇妙な空間に見渡す限りの闇、更には、

「インデックスを穢れた妄想で汚すんじゃねえ!」

 忽然と現れた黒髪の少年が五メートルほど先に立っている。

「少年。貴様が禁書目録を連れ去ったと言うのか」

 見知らぬ相手だったが、アウレオルスはすぐさま彼を敵と認識した。
理屈抜きに、感覚がそうであると告げていたからだ。

「必然。貴様を倒せばあの子を取り戻す事ができる」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ。お前は自分がしたことがわかってんのか?」
「左右より生じた壁に挟まれ圧死」

 緑のオールバックの若者は少年の台詞を無視し、必殺の言の葉を紡ぎ出す。

「どうやら言葉は通じないらしいな」

 だが、どういうわけか地面からせり出した壁は役目を果たす寸前で消失した。
想定外の現象に目を剥く錬金術師をにらみつけるや少年は雄叫びを上げて駆け出し、

「なら、まずはお前のいかれた妄想をぶち殺す!」

 振り上げられた拳はアウレオルスの顔を正面から捕らえて、

「ほおあァッ?!」

 三沢塾の一室に盛大な叫び声が響き渡った。



(……夢、だと?)

 アウレオルスは静かに息を吐き出すと、微かに眉を寄せた。
己の叫び声によって目覚めてしまったせいか内容を思い出せないが、途中までは甘美に満ちた、最後は不愉快極まりない夢だったような気がする。

 錬金術師は更に記憶を掘り起こそうとして、ふと入り口に腰まで届く黒髪の巫女装束に身を包んだ少女が立っていることに気づいた。
先ほどの声を聞きつけて、アウレオルスの様子を見に来たのであろう。

「どうかした?」
「いや、大事ない」

 姫神の問いかけにオールバックの錬金術師は淡々と応えた。
粘りつくような質の嫌な汗が背を濡らしているが、どんな内容であったにせよ所詮は夢の出来事、さしたる問題ではないと判断したのだ。

 しかし、姫神はそう思わなかった。
何故なら、アウレオルスの体に何らかの異変があったことを示すものを発見したためで、

「でも。鼻血が出ている」

 自身の顔を指差しながら言う黒髪の少女に、

「鼻血?」

 アウレオルスは弾かれたように口元から鼻にかけて手で覆い、ぬめりを覚えて愕然とする。
見れば、手のひらは自身の血で赤く染まっていた。
眠っている間に、机に打ちつけてしまったのだろうか。

 この後、散々頭を悩ませたが最後まで答えは出ず、アウレオルスは黒髪の少年・上条当麻と実際に顔を合わせてもなお夢の内容を思い出す事はなかった。

 その後、彼は未来永劫これまでの記憶を失い別人として生きることになるのだが、それはまた別の話である。

ver.1.00 08/12/15
ver.2.00 13/7/6

〜とある錬金術師の妄想・舞台裏〜


黒子「お姉様、そういうわけで夢のお話ですわ」
美琴「そうみたいね」
黒子「実はわたくしもよく夢を見ますの。お姉様の」
美琴「へえ。で、私はあんたの夢の中で何をしてるわけ?」
黒子「色々ですわ。一緒にお茶をしたり、ウインドウショッピングをしたり」
美琴「ふうん、意外に普通ね」
黒子「失礼ですのね。わたくしは、純粋に、本当に純粋に、お姉様に憧れているだけですのに」
美琴「ああ、ごめんごめん。そうふくれなさんな、私が悪かったって」
黒子「まあ、その。少し、いけない夢を見たことがないとは言いませんけど」
美琴「ほう、そいつは聞き捨てならないわね」
黒子「先に言っておきますが、十中八九、いえ、100%中の120%くらいお姉様は勘違いをなさっていますわ」
美琴「はっきりと言い切るわね。で?」
黒子「ほら、この間の……間接キッスですわ」
美琴「はあ? 間接キス?」
黒子「お姉様ったらひどいですわ。わたくしとの思い出を、まさか覚えていないとでも」
美琴「いや、そんな本気で泣きそうな顔しないでよ。私が悪いみたいじゃない」
黒子「お姉様のいけず。おたんちん。使い捨ててポイだなんて」
美琴「人聞きの悪いこと言うな!」
黒子「だって」
美琴「いや、覚えてないわけじゃないんだけどね。ただ、もっとスゴいことされているのかと思って」
黒子「なるほど、そういうことでしたか」
美琴「何よ、そういうことって」
黒子「まったく。お姉様が何を想像なさったのか、詳しく教えていただきたいですわ」
美琴「な、何言ってんの。私はその、別にたいしたことを考えていたわけじゃ」
黒子「さあさ、お姉様、遠慮せずにどしどし吐いてくださいませ。黒子は、何時間だって聞き続けますの」
美琴「だから、何でもないんだってば」
黒子「でしたらどうして顔を赤らめていますの? ねえ、お姉様」
美琴「あー、もうしつこい。だから、一緒にお風呂とか、そういうことよ」
黒子「……!」
美琴「あー。だから言いたくなかったのよ」

 頬を桜色に染めて沈黙してしまった白井に、美琴は照れ隠しにぽりぽりと頬を引っかく振りをしてから布団の中に潜り込んだ。

 その後、程なく恥ずかしさよりも眠気が勝って美琴はいつしか眠りについたのだが、色々ともよおしていた白井が就寝したのは明け方近くになってからの事だった。


 もはや、覚えている人は少ないでしょうか。超電磁砲では登場機会もなかった、一回ポッキリのキャラ、アウレオルスのお話です。
彼の名誉のために言っておきますが、インデックスのパートナー時代に「新婚さんごっこ」や「お医者さんごっこ」をしようとはしなかったはずです。
もっとも、何をしていたとしてもインデックスの記憶は失われていますから、何もしなかったという証拠はないのですけれど。
それはそれとして、あまりに彼は恵まれない人でしたから、これくらいの役得はあってもいいのかなと考えます。

 彼にとっては受け入れがたい現実を知って生き続けるよりも、何もわからなくなってしまった方が幸せだったのかもしれません。

 グッバイ・アウレオルス。

 さて、夢オチなのではっきり言って何でもありですね。
インデックスが裸エプロンでも、めくれちゃっても問題はありません。
あるとすればアウレオルスの妄想力、いえ、書いている私に、ですね。
彼のしゃべり方(〜然を多用)はちょっぴり頭を使わされたのですが、楽しかったです。
ただ、それが書きたかっただけかもしれません。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。
inserted by FC2 system