戦場ヶ原ひたぎ。言わずと知れた、蟹に行き遭った少女。
だが、かつて彼女を語る上で欠かせない重要なファクターと言っても過言ではなかった怪異との遭遇は、今ではただ過去の事象に過ぎなくなっている。
大げさな表現かもしれないが、いや、かもしれるのだろうが、誤解を恐れずに言い切ってしまえば戦場ヶ原という女について話をするのに、もはやその出来事はあまり意味をなさない。

 もちろん、戦場ヶ原一家が受けた詐欺被害や貝木との邂逅、数年に渡って重みを失った上での苦しみを、辛さを、軽んじようと言うわけではないし、当の本人ではないのだからまったく理解できないし想像もできない、などと突き放すつもりもさらさらない。
回りくどい言い方をしても仕方がないので有り体に言えば、足りないのだ。絶対値が不足している。
何がって、怪異とつながりを持ってしまった時間は大切な彼女である戦場ヶ原ひたぎを構成する要素ではあるが、それはごく一部でしかなく、コース料理に例えると食前酒、あるいは整えられたフォークやナイフ程度の存在であって、まったく、これっぽっちもと言っていいくらい戦場ヶ原を語るにはそこに占める情報量が少なすぎる。

 少し横道にそれてしまったが、ともかく話を進めよう。
事あるごとに手に汗握るスリリングに満ちた気分を味あわせてくれる、戦場ヶ原がどれだけ意外性に満ちた女であるか。
今更という気がしないでもないが、本当に今更としか思えないが、あえて語らせて欲しい。


 つい先日、民倉荘二〇一号室を訪れた時の話である。

「王様ゲームをします」

 区切りが良かったのでお茶にしようとペンを置き、参考書を閉じた直後、何の前触れもなく戦場ヶ原はそんなことを言った。

「違うわね。こうじゃないわ。王様ゲームを……王様ゲームをして……いただけませんか? 王様ゲームをし……したらどうな……です……」

 こういう時、どういう顔をすればいいのかわからなくなってしまうのは、唐突な振りに戸惑うせいではない。
変に気を遣って手を差し伸べたらコンパスで貫かれる、とは思わないけれど、基本姿勢がデレなのかツンなのか、ツンドラ乙女であるところの彼女は予想もつかない行動を取ることが多いからだ。

 わざと言っているのか、それとも本気でこうなのか。
どちらかといえば前者なのだと踏みつつも、初めて彼女がお願いをしようとした際に、こいつが誰かにものを頼むのが苦手なのを知っている僕は、特にまどろっこしさを覚えることなく結びの言葉を待つことにする。

 とはいえ、蟹と遭う前には当たり前のようにしていたことなのだろうし、八九寺の名前を噛むやり取りや羽川とのなんでも知っている、みたいにテンプレート化しているとみる向きがあるかもしれないが、僕の見解は単なる照れ隠しで、ストレートにとんでもない告白をしたり下着姿になったりする割に、意外に恥ずかしがり屋なのである。
戦場ヶ原ひたぎの、知られざる一面であった。

 真相はどうあれ、予定調和とも呼ぶべき、中身のわかっている答えがやや薄くしかし艶やかな唇から紡ぎだされるのを待つことしばし。

「王様ゲームをしましょう、阿良々木くん」

 無表情に、反逆の物語の主役を務めた三つ編みの魔法少女のごとくかなりの角度で首を傾けながら言う戦場ヶ原に、僕は軽く肩をすくめた。
彼女がしましょう、と言えばYES以外の答えはない。

 それにしても、だ。

「それは別にいいんだけどさ。僕とガハラさんと、二人だけでするのか?」

 記憶違いでなければ、王様ゲームなる遊びは飲み会などで定番のレクリエーションゲームの一種で、ランダムに決まった「王様」が出した命令(罰ゲーム)を、ランダムに決まった参加者が行う。
噂にところによると一昔前は合コンの場でよく行われていたらしい。
ただし、一対一でこのゲームをしたという話は、寡聞ながら聞いたことがない。

「そうよ。二人だからするの」
「意味深だな」

 にこりと笑いながら言うと、尚更だった。
ここでツッコミを入れるのは落とし穴に進んではまろうとするのも同然という自覚はあったが、どんなプレイもドンと来いである。
興が乗って、引かず媚びず顧みずの心意気だった。

「でもね、勘違いしないで頂戴阿良々木くん」
「勘違いって何だよ」

 再び表情を乏しくさせながら、戦場ヶ原は顎を突き出す格好で僕を見下ろしてくる。
毎度のことながら、こういうポーズが実によく似合う。

「王様になったからと言って、何でも言うことを聞かせられると思ったら大間違いよ」
「王様ゲームの前提を覆すような発言だな」

 つまり僕は勝とうが負けようが戦場ヶ原の言いなり、ということだろうか。
女王ひたぎによる絶対王政の治世にあっては、王の交代はありえないのか。もはや、ゲームじゃないな。

「前提? 違うわね。私こそがルールよ」
「まあ、僕は別にどちらでも構わないけれど」

 自らが法であることを宣言するのをさらりと流すと、不意に大輪の笑顔が咲いた。

「阿良々木くん、それは服従の誓いと考えていいのかしら。どれだけ屈辱的な命令に対しても、言いなりになる心の準備ができていると取っていいのね犬良々木くん」

 こいつの前では蕩れることさえ許されないのか。
聞かなかったことにすれば間違いなく見入っていたであろう表情に対し、僕はが用意したのは全力のツッコミだった。

「どこの世界に彼氏を犬呼ばわりするやつがいる」
「あら、ここにいるわよ」

 平然とこういう台詞を言ってのけるところは、ある意味で感心する。
決して、同じようになりたいとは思わないのだけれど。

「どうしてお前は僕に恥辱を与えようとするんだ」

 それも、息をするかのように。

「恥辱? 今更、阿良々木くんの体面や名誉に傷つく余地があるとでも?」
「ないと言いたいんだな」
「失礼ね。それだと最初からあったみたいじゃない」
「失礼なのはお前だよ!」

 暴言を重ねる戦場ヶ原は実にいきいきとしていた。
言葉責め大好き、戦場ヶ原さんの面目躍如である。

「冗談はさておいて」
「きつすぎる冗談だな」
「冗談であるかどうかはさておいて」
「そこはさておくな」

 フォローを入れるどころか更なる追撃を加えてくるとは、徹底した口撃ぶりだ。
ただ、そのことを責めるよりも先にうっかり何か失言をしてしまったのかと、ここ数日を振り返らなければならない気がしてくるのはどういう訳なのか。

「阿良々木くん。賢明なあなたなら何度も念を押すまでもなくわかっているとは思うけれど、万が一変な気を起こそうものなら倍返しどころの話ではないわ。十倍返しよ」

 十というのは存外控えめな数字だと思ったが、これまでの経験からあえて口に出すような愚は犯さなかった。


「どうやら私が王、いえ、女王のようね」

 蛍光ペンで色をつけた割り箸をひらひらさせて、戦場ヶ原はまたも頤(おとがい)を持ち上げた。
座っているのに、目線の高さはほぼ一緒なのに、この見下ろされている感は一体何なんだろう。

「誰に命令を聞いてもらおうかしら」
「誰に、ってここには僕とお前しかいないだろ」
「そうだったわね」

 口の端を緩めてくつくつと肩を震わせる彼女は、どんな褒美を僕に与えようと言うのか。緊張の一瞬である。

「1番は這いつくばって女王を見上げる」
「ふっ、容易い命令だ」

 どんなひどい指示が来るかと思っていたらその程度か。
顔面を蹴られてもなお、八九寺のパンツを凝視し続けた僕に死角はない。
何をされようと、たとえ目潰しを食らったって、戦場ヶ原の下着を拝んでみせる。

「セクハラよ阿良々木くん」
「しまった、今僕何か言った?」

 動揺する僕に、戦場ヶ原は無表情に小さく舌を出した。

「何も口に出してはいないけれど、いやらしいことを考えていたのはよくわかったわ」
「しまった、誘導尋問か!」

 まったく、これだから頭が切れるやつは困る。
僕の思惑なんて一から十まで筒抜けなんだろうな。

「さあ、可及的速やかにうつぶせになるのよ阿良々木くん」
「可及的速やかに、って日常会話で使うやつを初めて見たよ」
「そうね。阿良々木くんにとっては這い蹲ることくらい、地べたを這い回ることくらい、当たり前だものね」
「お前は僕に立つことさえ許さないつもりかよ」

 どんな高校生だ。ともかくここは従うとしよう。ゲームとはいえ、いや、ゲームだからこそルールは守らなければなるまい。
一方で、用意されているであろう罰の内容は気になるところではあるが、安易に試せば命がいくつあっても足りないだろう。

「これでいいのか」

 畳の上へ手首に顎を置く格好で伏せた僕は、確認のために上体を起こそうとした矢先、問答無用に上から押さえつけられた。
ついでとばかりに両の手首がタオルと思しき布で縛りつけられる。
酷い扱いだが、それでも荒縄でないだけマシと思うべきなのか。

「いい? 決して首を動かしてはだめよ。為政者の命令は絶対なのだから」
「わかった」

 やはりこちらの考えなどすべてお見通しらしい。だが、そんなことくらいで諦めてしまうようでは阿良々木暦は務まらない。

「これでいいか」
「ええ、いいわよ」

 戦場ヶ原はやおら足を開くと、伏せたままの僕に一歩近づいてからスカートの裾をつまみ上げた。

「動いては駄目と言ったはずよ阿良々木くん」

 反射的に顔を上げそうになったその時、畳との接吻を強要され、必然的に目の前が暗くなる。

「痛たた痛いちょっとマジで痛いってガハラさん」

 一拍遅れて足の裏で後頭部を押さえつけられたのだと知って不満を口にするが、込められた力は一向に弱まる様子はない。

「だから動いては駄目と言ったのに」

 諭すと言うより小馬鹿にしたような調子の言葉を浴びせられながら踏まれるという二重の責め苦だったが、後者はしばらく経てば変な跡がつきかねないものでありながら、しかしぎりぎり耐えられる程度に力加減をしてあって、これはこれで悪くなかった。
しかし、このままむざむざと頭上に広がる楽園を手放していいだろうか。いや、そんなもったいないことをできる訳がない。

「そう、それでいいのよ」

 つぶやきが聞こえてきた途端にいきなり圧力が消失したせいで海老反りしたくなる衝動をかろうじて抑えながらも、衣擦れの音とすぐ脇に覗く白皙の肌をしっかりと脳内に刻みつけるのを忘れない。

 数十秒に渡る焦らしの時間を経て、待ちに待った瞬間が訪れた。

「御開帳よ阿良々木くん」
「この時を待っていた!」

 と言っても、直接見ようというのではない。あくまでもルールの範囲内で、秘境に到達せんと試みる。
先人たちはなぜ未踏の地に憧れ、峻厳な山に挑もうとし、万里の波濤を越えて海を超えてきたのか。
決まっている。制約があるからこそ燃えるのだ。

 限界まで目を見開き、眼球を上向かせる。もっと先へ、加速しろ僕の視界。

「僕は! 人間をやめるぞ戦場ヶ原!」

 あと少し、あとほんの少しで届く。
どうやっているのかと聞かれると返事に困るが、僕は今人という殻を、その限界を打ち破ろうとしているのだ。
一念岩をも通す。切望すれば、やってできないことなどない。

「甘いわね阿良々木くん。その程度の気合で、種としての限界を超えられると思って?」
「舐めるなよ戦場ヶ原、僕は不可能を可能にする男だ。必ず超えてみせる」

 根拠のない自信を盾にきっぱり言いきると、数秒空いて半ば呆けたようなつぶやきが聞こえてきた。

「やば……超格好いい」

 いつか彼女がみせた表情が瞼の裏に蘇る。
残念ながらどんな表情で口にした台詞だったのか顔を見ることができないため確認できないが、今日一日散々罵倒され尽くされてきた後でこれは、萌える。蕩れる。

「言っておくけれど、これは意趣返しではないのよ」
「そう言いながらガハラさん、ギリギリ見えそうで見えないその立ち位置が果てしなく憎い」

 まさか、受験勉強の最中に精神修行までする羽目になろうとは思いもよらなかった。
できることなら今すぐにでも見上げたい。戦場ヶ原のふくらはぎに頬を寄せ、思う存分香りを堪能したい。
だが、阿良々木暦の誇り、こんなところで失う訳には……。

「ねえ阿良々木くん。どういう気分かしら」

 内心の葛藤を見透かしたかのようなひと言に、僕はたまらず叫んでいた。

「どういう気分だって? くそ、見えそうで見えない、わかってはいたけどこうももどかしいなんて」

覚悟していたつもりだったが、まったく足りていなかったらしい。

「ルールに縛られている時点であなたの敗北は決定的なものとなったのよ」
「いや、ゲームを楽しむためにはルールを守らなくちゃ駄目だろう」

 ただ下着を見るだけならいつでも見れる。
踏まれてもなお強く、踏まれようとも折れない心で挑み続ける雑草魂さえあれば事足りる。
今僕が求めているのは、そういう類のものではない。

 まさか、本当は見て欲しいとかそういう訳じゃないだろうし。

「実は」
「実は?」

 例によって唐突な切り出しは、実に衝撃的だった。

「際どいながらも要所をきちんと押さえたものを選んだのよ。色も阿良々木くんが好きそうなものだし、きっと喜んでくれるわ」
「? いきなり何を言い出すんだガハラさん」
「私が身につけている下着の話よ」
「なっ」

 我ながら、顔を上げなかったのは奇跡と言っていい。
何なんだ、これは。焦らしプレイなのだろうか。

「いいえ、違うわ阿良々木くん。これは慈悲よ、ノブレス・オブリージュ。持てる者の義務とでも言ったところかしら」
「格好よく聞こえるように言ったところで、たかだか王様ゲームだぞ」

 されど王様ゲーム。実に奥が深い。

「そうね。次のゲームを始めましょう」
「まだやる気かよ」

 言葉とは裏腹に結構ノリノリな僕である。
戦場ヶ原がこの出来レースを楽しんでいるのなら協力するにやぶさかでない。

「また私が女王ね」

 またというより常に女王だと思うのは僕だけだろうか。

「今度の命令は心して聞いて頂戴阿良々木くん」
「なんだ、もったいつけて」
「口答えをしないの。あなたは私の下僕なのだから、って這い蹲らなくていいわよ。まだ」

 こいつ今まだ、って言いやがった。

「口づけをなさい」

 軽く憤ったところにやってきた指令に、僕はぽかんとしたまま彼女を見つめることしかできない。

「べろちゅーよ」
「だからべろちゅーとか言うな」

 なんとかそう言い返したものの、心臓はばくばくいっている。
だが、平静を保っていられないのはこちらばかりでもないらしい。

「丁寧に、情熱的に、官能的に、私がその気になるようなキスをしなさい」

 大胆な発言をする戦場ヶ原の頬はほんんりと赤い。
それが、一層僕の思いを激しくさせる。

「ガハラさん」
「……阿良々木くん」

 高ぶる感情のままに抱きしめた彼女が、耳元でそっと囁く。

「今日、お父さんは帰らないから」

 知っている女の子たちの間で空気が読めない男という不名誉な評価を頂戴している僕だったが、この時ばかりは、最初からそのつもりだったんだな、という百年の恋も冷めそうな台詞を口にすることはなかった。

ver.1.00 13/11/24

 久しぶりの化物語SSです。久々のガハラさんです。相変わらずの毒舌ぶりです。だが、それがいい。
メインキャラの中で撫子並に書いていないキャラ、羽川の話もそろそろ、と思いつつ、なかなか書けずにいるのでした。
神原や八九寺とのおバカトークもやりたいです。ぱないの!なキスショットも書きたいです。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。

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